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世界を魅了した女性ドラマー、カレン・カーペンター 〜Karen’s Biography ♯1〜

  • Supervised by Richard Carpenter
  • Text:Cozy Miura
  • Photo:Koh Hasebe/Shinko Music(Getty Images)

カーペンターズの結成と勝利へのグルーヴ

この間、リチャードはカレンと一緒に2つめのグループを結成し、彼女はやがて大勢の人々を魅了することになる美声でヴォーカルを取った。リチャードが新グループ、“スペクトラム”で重視したのは、ヴォーカル・アプローチだった。リチャードはインスピレーションの大半をメリー・フォード、ビーチ・ボーイズ、アソシエーションなどのハーモニーから得ていたが、アレンジは彼独自のものだった。

しかし当時、世間の関心はもっぱらロック・バンドに向いており、スペクトラムは結果が出せずに苦しんだ。ブルー・ロウやウィスキー・ア・ゴー・ゴーといったメジャーなライヴ・ハウスで前座としてプレイしたものの、バンドは長続きせず、リチャードとカレンは再びそれぞれの世界に戻ることになった。

そんな彼らを新たな道に導いたのはジョー・オズボーンだった。リチャードのアレンジ能力とカレンの歌唱スタイル、そして2人のオーヴァー・ダビングによるコーラス・サウンドを買っていた彼は、彼らに自分のスタジオに戻ってくるよう提案したのだ。

68年半ば、3人はリチャードが作曲した「Don’t Be Afraid」、カーペンター&ベティス・コンビによる「Your Wonderful Parade」、「Invocation」の3曲をレコーディング。3回のセッションを終えたリチャードは確かな手ごたえを感じた。彼らはついに勝利のグルーヴに辿り着いたのだ。

「そこにはカレンのサウンドがあった。あとは彼女にふさわしい曲を待つだけ。成功はすぐ目の前にあった」……リチャードは有名アーティストの曲に頼らず、カレンと2人で独自の新しいサウンドを作ろうと決めた。グループ名は“ザ”のつかない“カーベンターズ“。“バッファロー・スプリングフィールド”や“ジェファーソン・エアプレイン”のように“ザ”を入れない方が聞こえがいい、というのがリチャードの考えだった。

カレンは自分自身を“歌えるドラマー”だと思っていたが、リチャードは彼女のヴォーカルに大きな可能性を感じていた。成功への新たな道のりには数多くの障害があったが、バンド・サウンドという概念から離れた彼らに、幸運の女神は微笑んだ。2人が作ったデモ・テープに興味を持つレコード会社が現れ、さらにそれが巡り巡って、A&Mレコードの共同創立者ハーブ・アルバートの手に渡ったのだ。

69年当時、アルバートは世界的に有名なトランペッターで、大成功を収めたティファナ・ブラスのリーダーでもあった。A&Mの”A”は彼の頭文字である。アルバートの机には有望アーティスト達から送られてきた数百本ものデモ・テープが山積みされていた。そしてある日、そのうちの1本から流れてきたカレン・カーベンターの歌声が彼の心の琴線に触れたのだ。それはまるで、彼が高校時代にカリフォルニアのアローヘッド湖を訪れたとき、湖畔に置かれたスピーカーから流れてきたパティ・ペイジの歌声のようだった。

「スピーカーを見つめながら、パティ・ペイジを思い浮かべたのを覚えてる。すごい存在感だった」……彼が聴いたカーベンターズのテープはリチャードとカレンがオズボーンのガレージスタジオで録音したもので、多重ハーモニーが印象的だった。「Don’t Be Afraid」、「Your Wonderful Parade」、「Invocation」の3曲は、流行のロックというよりストレートなポップスだったが、幸いアルバートは彼が言うところの“今週お薦めのビート(最新の流行)”以外の音楽にも理解を持っていた。

カレンの歌声とハーモニー、そして曲のアレンジに惚れ込んだ彼は、即2人に契約を申し入れた。69年4月22日、リチャードとカレンはジェリー・モスのオフィスヘ行き、契約を結んだ。当時カレンは19歳で法律上では未成年だったため、今回も両親が副署することとなった(後編へと続く)。

リチャード・カーペンター
ビルボードライブ15周年を記念して初登場!

リチャード・カーペンターがビルボードライブの15周年を記念して、3月に来日が決定! 3月27日の大阪公演を皮切りに、3月29日、30日、4月1日に東京公演、4月3日に横浜公演がそれぞれ行われます。詳細はユニバーサル・ミュージックの公式サイトから→https://www.universal-music.co.jp/carpenters/news/2022-12-02/