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【Archive Interview】エルヴィン・ジョーンズ ①

  • Translation & Interpretation:Akira Sakamoto
  • Photo:Tetsuro Sato

初めて譜面を見て3、4時間後には
音符や休符というものが
何を意味しているのかを理解したんだ

ジャズの歴史に名を残すジョン・コルトレーンの傑作『至上の愛』。生涯で2回しか演奏していないとされていたこの作品の未発表ライヴ音源が発掘され、『至上の愛~ライヴ・イン・シアトル』と題して10月22日に全世界同時発売される。ここではそれを記念し、名演を繰り広げたレジェンド・ドラマー、エルヴィン・ジョーンズにフォーカス。第一弾として、2002年に実現した対面インタビューの前編をお届けする。

●まずは、幼い頃のあなたを取り巻いていた音楽環境についてお話しいただけますか。

エルヴィン 私はミシガン州ポンティアックの生まれで、一番上の姉が音楽のことをよく知っていてね、7〜8歳の頃からクラシックを演奏していたけれど、別に学校で習ったりしたわけじゃないんだ……彼女はただ、どうすればいいかがわかっていたんだね。当然のごとく、彼女は私に音楽の手ほどきをしてくれた。兄のハンクも彼女にピアノを教えてもらって、やがてピアニストになったけれど、2歳か3歳の頃の私は、音楽についてそれほど真剣に考えていたわけじゃなかった。でも、リズムには興味があって、いつかドラムを叩きたいと思っていたんだ。譜面のことはそれほど気にしちゃいなかったけれど、リズム楽器には強い魅力を感じていた。当時はまだ、テレビがめずらしい頃だったから、ラジオでザイロフォン(木琴)の演奏なんか聴いて感激していたよ。ギターもよく聴いていたな。ピアノよりもギターの方が素晴らしい楽器だと思っていたからね(笑)。まあ、そうは言っても、自分がなりたかったのはドラマーだった。2歳の頃から、そう思っていたんだ。

●身近にあるものを何でも叩いたり……?

エルヴィン そう! 台所に入り込んで、母親のフライパンを木のスプーンで叩いたりしていたよ(笑)。それから、私の住んでいた街の催しで一番大きなものと言えばサーカスやカーニバルで、サーカスにはマーチング・バンドの入ったパレードがつきものだった。お揃いの美しいユニフォームを着てね。パレードが来ると、私はよく、その後をくっついて街中を回ったよ(笑)。

●スネア・ドラムに誘われて……ですね。

エルヴィン そうそう……ずっと後になってラディック社の創業者から聞いたけれど、彼の父親はそういうサーカスのバンドのリーダーをしていたんだ。父親と一緒に旅回りをして、ホテルになんか泊まれないから農家の干草の中で寝たなんていう話をしてくれたよ(笑)。とても面白い話だったね。サーカスの人達が旅回りをするときには、そうやって自分の寝ぐらを確保するのが当たり前だったんだろうな。トレーラーがなければ、地面の上で寝るしかなかっただろうからね。

で、私の街に来たサーカスの人達はよく、トラックの荷物を降ろした後、朝早くに私の家を訪ねてきたけれど、母親はいつも、大きなポットに沸かしたコーヒーをご馳走していた。そんなふうに、我が家の人間は彼らと親しくつき合っていたんだ。サーカスの人達は、一般の人達とは違うという目で見られがちだけれど、みんなはただ、自分のするべき仕事をしているだけなんだ。僕は幻想を取り払って、より現実的な目で彼らのことを見ていた。彼らは一生懸命に練習して、難しい仕事をこなしていたんだ。私もドラムをやるようになれば、ああやって練習しなきゃならないんだろうなと思ったよ(笑)。もちろん、覚悟はできていたけれどね。

●では、実際にドラム、あるいはスネア・ドラムはいつ頃、どんなきっかけで始めたのですか。

エルヴィン 中学校にスクール・バンドがあって、初心者のバンドと少し経験を積んだ生徒のバンドと2組に分かれていた。ドラマーになりたい生徒を集めた最初の授業で、ドラムをやるにはまず、ドラム・スティックと練習用のパッド、それにポール・ヨーダーの教則本––パーカッションを学校で教えるときの教科書で、アメリカではよく知られた本だけど––それを買わなきゃならないと言われた私は、母親からお金を借りることにした。そのときまで、私はお金というものを見たこともなかったけれどね(笑)。スティックが50セント、教則本が1ドル、そしてドラム・パッドが1ドルだったから、全部で2ドル50セント必要だったけれど、私はそのお金をどうやって調達したらいいのかわからなかった。そこで母親に相談して、貸してもらうことにしたんだ。お金は新聞配達をして、ちゃんと返したよ。

それはともかく、買ってきた教則本を聞いた私は、初めて譜面というものを見た。でも、そこに書いてある解説を読んで、3、4時間後には、音符や休符というものが何を意味しているのかを理解したんだ。私は譜面を見ながら練習を始めて、一晩でその本の課題を最後まで全部やってしまった。翌日学校へ行って、先生に「この本に書いてあることは全部理解しました」と言っても、もちろん信用してくれない(笑)。そこで私は、先生の前でそれを証明して見せたんだ。

●先生はびっくりしたでしょうね。

エルヴィン びっくりしたと思うよ。私にとっては何ということはなかったけれど、一生懸命ドラム・パッドに向かうことで、自分の人生における1つの目標を達成したという、満足感のようなものがあったね。

●最初から独学だったようですが、先生に就いて学ぶということはありませんでしたか?

エルヴィン 私は自分以外の全員が先生だと思っているけれど(笑)、君のいう意味での正式なレッスンを受けたことはなかったよ。何よりもまず、お金がかかるからね(笑)。私は10人兄弟の末っ子で、家にはそんな余裕はなかった。だから私はもっぱらラジオから流れてくる音楽を聴いて勉強したよ。でも、私が入った高校には素晴らしいマーチング・バンドがあって、それを指導していた先生がとても教養豊かな人でね。30年代というのは不景気で、大学で博士号を取ったような人でも仕事がなかったから、彼らはみんな、地方の学校で先生をしていたんだ。私達にとっては幸運だったよ。数学や国語(英語)、物理といったあらゆる教科の先生が、そういう人達だったんだからね。

●もちろん、音楽の先生もですよね。

エルヴィン ああ、そうだよ。私達のマーチング・バンドを指導していた先生はもともと、パーカッショニストだったけれど、クラリネットやトランペット、トロンボーン、チューバと、バンドのあらゆる楽器ができたんだ。フレッド・N・ウィーストという先生でね。彼もミシガン大学で博士号を取った人で、中学や高校でスクール・バンドを指導する人達のための手引書まで書いたんだ。アメリカの音楽の先生がみんな、その本を読んで勉強していたんだよ。

●つまり、正式なレッスンを受けたことはなくても、きちんとした先生に就いて習っていたようなものですね。

エルヴィン まあ、そうだね。でも、私はもともと、個人教授に就いて音楽を習う必要があるとは思わなかった。教則本があるんだから、それを買って勉強すればいいじゃないかと思っていたからね。教則本に書いてあることに従えば、必要な知識はちゃんと身につけることができる。もちろん、そのためには時間と集中力が必要だけれど、それさえあれば話は単純だよ。

●独学だと、知らないうちに変なクセが身についたりという問題があると思うのですが。

エルヴィン 今話しているようなレベルの問題を解決するために、学校の先生がいるんだよ。生徒が何か問題を抱えていれば、先生がそれを見つけて、「ああ、君の場合はそこが問題だね。それじゃあ、この練習をやってごらん」と、その問題を解消するための特別な練習を考えてくれるわけだからね。

●では、あなたがプロ活動を始めた頃のことをお話しいただけますか?

エルヴィン 高校卒業後に航空隊に入り、その兵役を終えたあと、再び故郷に戻って、しばらくは叔父のクリーニング店で働いていたよ。かなりの重労働だったけどね(笑)昼間はずっと働いて、夜になるとその頃ようやく買った車でデトロイトに通った。デトロイトはポンティアックから24マイルぐらいで、車なら45分もあれば行ける距離だからね。デトロイトは、どこへ行っても音楽を聴くことのできる街で、私はたくさんのミュージシャン達の演奏を見た。中でも私が興味を覚えたのは、ウディ・ハーマンのバンドにいたこともある、アート・マーティガンというドラマーだった。彼はデトロイトの出身で、サクソフォン・プレイヤーのワーデル・グレイのバンドで演奏していたけれど、私をときどき飛び入りさせてくれてね。そして、彼が他のバンドで仕事をすることになったときには、ワーデルとの仕事を私に譲ってくれたんだ。

●それがあなたにとって最初の大きな仕事になったわけですね。

エルヴィン そう。プロとして最初の本格的な仕事だった。ワーデルは素晴らしいミュージシャンで、私は彼から多くのことを学んだよ。そうして1つの仕事が次の仕事を呼ぶようになったけれど、デトロイトにマックス・ローチがやって来たことで、1つの大きな転機が私に訪れたんだ。マックスはハロルド・ランド(t-sax)やジョージ・モロウ(b)、リッチー・パウエル(p)、クリフォード・ブラウン(tp)と一緒だったんだけれど、突然腹痛を起こして、ある人を介して私に代役を頼んできたんだ。レコードは、いったん発売されるとあっという間にみんなの間に知れ渡るもので、私も素晴らしい音楽をレコーディングしたバンドの演奏は何でも聴いていたから、マックスが演奏していた曲もみんな知っていた。ステージが終わったあと、バンドの連中と一緒に彼の泊まっていたホテルへ行って、いろいろと話をしながら楽しく過ごしたよ。マックスはいつも優しい紳士でね––まあ、そんなことがあって、私の噂がニューヨークにも広まるようになったんだ。その仕事のおかげで、私の評価が先行する形になったわけだけれど、私はたまたま、然るべきときに然るべきところにいただけで、他に私よりもうまくできる人がいたかもしれない。

◎作品情報
『至上の愛~ライヴ・イン・シアトル』
ジョン・コルトレーン

発売元:ユニバーサル 品番: UCCI-1052 詳細はこちら●ユニバーサルHP