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ビートルズ来日60周年|リンゴ・スターと転換期の1966年を振り返る【アーカイヴ】
- Text:Satoshi Kishida
- Photo:ullstein bild/Getty Images
1966年、日本全国を熱狂へと巻き込んだザ・ビートルズの最初で最後の来日公演。この年はビートルズにとって運命の1年だった。日本武道館での歴史的公演を実現させる一方、バンドはライヴ活動の終焉へ向かい、スタジオではロック史を変える名盤『リボルバー』を完成させる。後に『赤盤』『青盤』の分岐点ともなったこの年は、4人が“アイドル”から“アーティスト”へ生まれ変わった転換点だった。来日60周年となる2026年、リンゴ・スターのドラミングと共に、その激動の1年を振り返る。
イントロダクション|
「赤盤」と「青盤」の境界線となった1966年
『赤盤』、『青盤』という通称で親しまれてきた1973年発売のビートルズのベスト・アルバムがある。1962年10月5日にシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューし、1970年4月にポール・マッカートニーが解散宣言するまでの約8年の活動期間を俯瞰し、代表曲を年代順に網羅したこの2連作のベスト盤の正式タイトルは、『赤盤』が『ザ・ビートルズ/1962~1966』、『青盤』が『ザ・ビートルズ/1967~1970』だった。選曲はジョージ・ハリスンが担当したといわれているが、ビートルズの活動を「デビューから1966年まで」と「1967年から解散まで」というふうに区切った意味は、キャリアの前後半を単純に4年ずつ分けた、ということ以上に、重いように思われる。
両盤を聴いた多くのファンには自明だが、『赤盤』、『青盤』としてまとめられた2作の音楽性は大きく異なっていて、ジャケット・カラーの「赤」、「青」という色のコントラスト以上に、ビートルズの劇的な変化を表していた。そしていみじくも「赤」と「青」の境界線となった1966年こそ、彼らの音楽的変化を画した「分水嶺」、「転換点」に当たる年だった、ということを示しているように思えるのだ。
ビートルズが一度きりの来日を果たした1966年から、今年でちょうど60周年。彼らにとって、1966年とはどんな年だったのだろうか。
『リボルバー』の制作|
ドラマー、リンゴ・スターの”開花”
1966年のビートルズは創造性のピークに達しようとしていた。同年4月に制作がスタートした7作目の『リボルバー』は、300時間という空前のスタジオ作業を経て、アートとロックが結びついた才気溢れるサウンドを展開。バンド・メンバーに限らず、ブラス・セクション、タブラ奏者、ストリングス隊、フレンチ・ホルンなどのセッション・ミュージシャンを呼び、サウンド面でも、史上初のテープループやテープの逆回転、ヴォーカルにエフェクトをかけるなどといった斬新な手法を積み重ねた。
リンゴは本作について、本誌掲載のインタビューで「『リボルバー』で、やっとバス・ドラムの音が聴こえるレコードを作ることができた。ドラマーとして開花した」という主旨のことを語っているが、ポールのリッケンバッカーのパンチのあるベース・サウンドに、リンゴのドラムが絡み、迫力あるグルーヴを生み出す点も聴きどころだ。「タックスマン」で始まり「トゥモロー・ネバー・ノウズ」の終わる構成も、ある種の「循環」を思わせる。
ちなみに、強力な低音をクリエイトできた要因には、20歳の若さで本作のチーフ・エンジニアに抜擢され、後に『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』でグラミー賞を獲得するジェフ・エメリックの存在が大きい。彼が考案したドラムの録音手法には、現在スタンダードになっているものも多く、打面近くにマイクを接近させるクローズ・マイクや、バスドラの中に毛布(当初はセーターだった)を入れるミュート法は、彼が始めたアイディアだったという。
初来日コンサート|
熱狂と物議の日本武道館公演
1966年6月、『リボルバー』の録音を終えたビートルズは、結果的に最後となるワールド・ツアーに出発。ドイツ公演の後、同月29日午前3時40分、羽田空港に到着。初来日コンサートのため、ついに日本の地を踏んだのだった。
同日午後、滞在先の東京ヒルトン・ホテルで記者会見を行ったあと、7月2日までの3日間に計5回のコンサートを日本武道館で行い、のべ5万人を動員。日本公演は、ブライアン・エプスタインのアジア戦略として、ビートルズ・サイドからの強い希望もあり実現したもので、日本武道館がロック・コンサートに使われたのは、これが初めて。「神聖な武道館を使わせるな」という右翼団体やアンチ・ビートルズの声や、ビートルズを観に行ってはいけないと通達を出した学校などもあり、コンサート3日間に、機動隊員・警官延べ5,500人が配備される物々しさだった。
1回のコンサートは2部構成で、第1部に日本人出演者が登場し、第2部でビートルズが演奏。日本人出演者には、ザ・ドリフターズ、尾藤イサオ、内田裕也、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルー・ジーンズ、望月 浩、桜井五郎。
ビートルズの演奏曲は「ロックン・アンド・ロール・ミュージック」、「シーズ・ア・ウーマン」、「恋をするなら」、「デイ・トリッパー」、「ベイビーズ・イン・ブラック」、「アイ・フィール・ファイン」、「イエスタディ」、「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」、「ひとりぼっちのあいつ」、「ペイパーバック・ライター」、「アイム・ダウン」の11曲。コンサート・チケットはA席2,100円、B席1,800円、C席1,500円だった(2,100円は、当時の大卒初任給の約10分の1に相当)。
常にホテルでの缶詰状態を強いられるビートルズは、リハーサルを行わず直接本番のステージに現れていたようで、当時の音源などを聴くと、演奏の完成度にあまり高くない印象だが、ロックンロール・バンドのベース・ラインを保持しつつ、『リボルバー』セッションで録られた最新シングル「ペーパーバック・ライター」もしっかり演奏し、全11曲にビートルズの急速に変遷するさまざまな顔も感じられる選曲になっていた。
放映権を得た日本テレビは、6月30日と7月1日昼の部のコンサートを収録したが、30日の映像はエプスタインからNGが出て、1日昼の部の演奏が1日夜9時から特番で放映され、60%の視聴率を記録する。
5回のステージを無事終えたビートルズは、7月3日朝10時38分に再び羽田空港から、次の公演地、フィリピンのマニラに向かうが、マニラ公演で起こった悪夢と、その後のアメリカ・ツアーの経験が、ビートルズがライヴ活動停止を決定する直接の引き金となる。
ライヴ活動休止を決定|
再生のための1966年
マニラでは、スタジアム2回公演で8万人を集めたが、マルコス大統領主催の歓迎パーティに出席しなかったことが、現地サイドの連絡ミスから国家的な侮辱と受け取られ、帰国の空港で激怒した市民にエプスタインが暴行を受け、コンサートの収益すべてを返還せざるを得ない事態となった。
それに続くアメリカでは、誤って報道されたジョンの「キリストより人気がある」発言が反感を買い、メディアのバッシングで排斥運動が過熱させ、脅迫電話に生命を脅かされた。8月21日のセントルイス公演で、雨天で感電の危険がある中、演奏を強要された際に、ライヴ続行を最後まで主張したポールもついに折れ、8月29日のサンフランシスコ、キャンドル・スティック・パーク公演をもって、コンサート活動に終止符を打つことが決まったとされる。
しかし、ライヴ活動の終わりは、ジョンの「ヘルプ!」の無意識の叫びから、すでに始まっていたとも言える。アイドルであることを求めるファンやマネジメントの期待と、スタジオ・ワークで実感した音楽的探究の楽しさやアーティストとしての自信、その2つに引き裂かれた1965~1966年が、至りつく結論はそこにしかなかった。実際『ラバー・ソウル』や『リボルバー』で作り上げられたサウンドは、ライヴ・バンドとしてのビートルズを完全に追い越していたのだ。
ビートルズの新しい「分身」を作るというポールのアイディアから始まったアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の制作は、1966年11月に開始され、年をまたいで、1967年4月まで5ヵ月間の最長のレコーディングとなる。67年8月にブライアン・エプスタインが急逝するのも象徴的で悲しい出来事だが、1966年は、ビートルズにとって、それまでの自分達を葬り、新しい自己を獲得するための新生、生まれ変わりの年として避けて通れない、決定的に重要な年であったのだ。
*本記事は2016年7月号掲載の内容に再編集を加えたものです
参考文献:『ビートルズ事典』香月利一著(1974)、『ビートルズ全曲解説』ティム・ライリー著(1990)『ジョンとヨーコ ラスト・インタビュー』デービッド・シェフ著(1990)、『ビートルズ・ギア』アンディ・バビアック著(2002)、『シンコーミュージックムック MUSIC LIFE ザ・ビートルズ来日前夜』(2016)、『「ビートルズと日本」熱狂の記録』大村亨著(2016)
リンゴのインタビューも掲載した永久保存特集


ザ・ビートルズの来日50周年にあたる2016年7月号で特集した「1966年のリンゴ・スター」。バイオグラフィ全文に加え、映像作品から探るドラミング分析、使用機材の徹底検証など、転換期を迎えたリンゴ・スターを多角的に掘り下げた特集です。さらに、当時の最新ソロ・アルバム『ポストカーズ・フロム・パラダイス』について語った独占インタビューも収録。ドラマガのバックナンバー読み放題サービス(月額990円/いつでも解約可能)でご覧いただけます。