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神田リョウ初の著書「神田式 一生使えるグルーヴのレシピ」特設サイト

  • Photo:Taichi Nishimaki
  • Text:Isao Nishimoto、Rhythm & Drums Magazine(Interview)

語り下ろしインタビュー
“#月イチ1グルーヴ”へ至る道

※「神田式 一生使えるグルーヴのレシピ」巻頭インタビューの序盤を再編集したものです。

フリーランスのプロ・ドラマーというものを
何とか仕事として成立させようと
思いつく限りの努力は全部やってみた

●幼少時代はどんな子供でしたか?

どちらかというと良い子で、そして他人のことをめちゃくちゃ見ている子供でした。実家は兵庫県で、兼業農家で酒米とかを作っていたんです。親父がフォーク・ギターを持っていた以外は、音楽はもちろんドラムのドの字もない家でした。

●学校ではどんな存在でしたか?

友達は多かったですね。かと言って、ずっと特定のグループにいるタイプでもなく。特に自覚はないんですけど、リーダーシップは取ろうとしていたかもしれません。あと、独りで遊びを見つけるのが超うまかったんです。“こんな遊びできたよ~”って言うと、みんながワーッとそれに切り替わるみたいなこともよくあって、盛り上がっているところで自分はスーッと抜けて、また新しい遊びを作る、みたいな感じ。もともと承認欲求が強いタイプで、何かしら認められたいというのは小さい頃から強かったんだろうなとは思います。それも素直な欲求というより、今これをやっておくと後々心地良い瞬間に浸れるんじゃないかっていう方向を選ぶ、みたいな。でも、基本的には好奇心だけですね。自分の行動原理は好奇心しかない。それをこじらせ続けて今、ドラムを叩いているんです。

●高校に入ってからドラムを始めたのですね。

ジャズのビッグ・バンド部に入りました。ドラムを叩ける部活がそこしかなかったんです。ただ、寮生活で制限が多かったので、練習するのは大変でしたね。練習パッドでさえうるさいから叩ける場所は限られていたし、あとは寝ながら空振りでスティック振ったりして、イメージ・トレーニングみたいなことをしていました。情報源はドラム・マガジンだけ。テレビすらなくて、携帯電話も決められた時間以外に使うと没収される。すごく限られた練習環境の中、昨日の自分よりうまくなりたいと思って、いろいろ工夫していました。

●高校を卒業してからは、専門学校に進んだんですよね。

高校3年でプロ・ドラマーを志すようになって、だけどプロになるにはどうしたらいいかわからなくて、最短距離でうまくなりたいと思い、大学をすべて蹴って、進学するなら音楽学校にしようと。両親も“お前が行きたいなら行きなさい”と背中を強く押してくれました。そうして入学した甲陽音楽学院(現:神戸・甲陽音楽&ダンス専門学校)には、生徒も先生も面白い人達がたくさんいましたね。お師匠の多田明日香先生は、いわゆる“昭和の先生”のイメージで、甲陽に入るまで譜面が全然読めなかった僕は、譜面にめちゃくちゃ強い多田先生に相当しごかれました。でも僕はそういう先生がすごく好きで、たくさんの現場を見せてもらったり、社会人のビッグ・バンドで武者修行するチャンスをもらったりしながら、サポート・ミュージシャンとかスタジオ・ワークに必要なイロハをたくさん教わりました。

●その後、東京でプロのキャリアが始まったわけですね。

ちょっと話が戻りますが、高校3年のときに熱帯JAZZ楽団が中高生と合同演奏する企画があって、そのオーディションに応募したんです。ドラム枠じゃなくティンバレス枠だったので、突貫工事で練習して臨んだら合格して、一緒にステージをやらせてもらいました。それでバス・トロンボーンの西田幹さんとご縁ができたんです。20歳になる年の4月に上京して、右も左もわからず23区内で最初に住んだのが足立区だったんですけど、たまたま西田さんも足立区の西新井在住で、ぜひ一緒にいろいろやっていこうねとなって、それから何かとお世話になりました。

●上京して早々にそういうつながりがあると心強いですね。

あるとき西田さんからラテン・バンドでティンバレスを叩いてほしいと声をかけてもらって、行ってみたらコンガが石川武さん、ドラムが山村牧人さん。そこから牧人さんといろいろお話しする機会ができて、コルグのWAVEDRUMや、当時コルグが輸入していた電子ドラム2BOXのデモンストレーターの仕事を紹介していただきました。さらに、東日本大震災の復興企画として行われた“東北六魂祭”というライヴにコルグが出展していて、デモンストレーターとして参加したときにピエール中野さんと出会ったり。もう10年以上前のことですが、そこから時が経ち、今SAKAEでもう一度コルグと絡むことになったのは面白いですね。つながりと言えばもう1つ、甲陽在学中に一緒にバンドをやって、上京するときも一緒に出てきて足立区でルームシェアしていた相方が、今Nissyでベースを弾いてる堀井慶一なんです。お互いのチャンスをシェアし合って、今でも仲間と一緒に活動できているのはうれしいですね。人のご縁と運に恵まれているのが、何より神田リョウ最大の強みかもしれないです。とても感謝しています。

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