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    Story of “The Beatles” in 1966〜ビートルズ来日55周年記念〜

    • Text:Satoshi Kishida
    • Photo:ullstein bild/Getty Images

    1966年、日本全国を熱狂へと巻き込んだザ・ビートルズの最初で最後の来日公演。1966年は、ロック化を推し進めた名盤『リボルバー』のリリースに、ライヴ・ツアーからの撤退など、アイドル・バンドから本格的なアーティストへと変貌した、ビートルズにとってターニング・ポイントとも言える1年。ここではビートルズとリンゴ・スターにとっての1966年に迫った2016年7月号の特集記事から、奇跡の来日公演の前後を追った渾身のバイオグラフィを公開!

    序章

    『赤盤』、『青盤』という通称で親しまれてきた1973年発売のビートルズのベスト・アルバムがある。1962年10月5日にシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューし、1970年4月にポール・マッカートニーが解散宣言するまでの約8年の活動期間を俯瞰し、代表曲を年代順に網羅したこの2連作のベスト盤の正式タイトルは、『赤盤』が『ザ・ビートルズ/1962~1966』、『青盤』が『ザ・ビートルズ/1967~1970』だった。選曲はジョージ・ハリスンが担当したといわれているが、ビートルズの活動を「デビューから1966年まで」と「1967年から解散まで」というふうに区切った意味は、キャリアの前後半を単純に4年ずつ分けた、ということ以上に、重いように思われる。

    両盤を聴いた多くのファンには自明だが、『赤盤』、『青盤』としてまとめられた2作の音楽性は大きく異なっていて、ジャケット・カラーの「赤」、「青」という色のコントラスト以上に、ビートルズの劇的な変化を表していた。そしていみじくも「赤」と「青」の境界線となった1966年こそ、彼らの音楽的変化を画した「分水嶺」、「転換点」に当たる年だった、ということを示しているように思えるのだ。

    ビートルズが一度きりの来日を果たした1966年から、今年でちょうど55周年。彼らにとって、1966年とはどんな年だったのかを振り返ることから始めてみよう。

    ライヴ活動期

    1963年1月にセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を発売し、初のイギリス・ツアーを経て、同曲が英「NME」「メロディ・メイカー」両誌のチャート1位になって以降、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人は、イギリス全土とヨーロッパにビートルズ旋風を巻き起こしていく。アマチュア時代から精力的にライヴで腕を磨いた彼らにとって、1966年までは、大づかみに言ってライヴ中心の活動期である。

    1964年には、初のアメリカ公演(2月)、デンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る初ワールド・ツアー(6月)、さらに再びアメリカに渡って、初の北米ツアーを含む長期ツアー(8~9月、10~11月)を行い、ビートルズ現象は世界規模となっていく。

    1965年前半、5枚目のアルバム『ヘルプ!』のレコーディングと、同名映画の撮影を行った彼らは、ヨーロッパ・ツアー後、8月に3度目のアメリカ上陸を果たし、北米ツアー初日の8月15日、ニューヨーク/シェア・スタジアムでの公演は、5万5,600人という、当時として史上最高観客動員を記録した歴史的コンサートとなった。

    前年(64年)の北米ツアーで、約1ヵ月に25都市31公演をこなす過酷なスケジュールを組み、バンドが疲労困憊してしまった反省と、膨れ上がるファンのライヴ需要に応えるため、この頃には小会場のコンサートはほぼ不可能となり、大会場に大観衆を一挙に集めるというコンサートの巨大化、スタジアム化が図られた。その象徴的出来事が、ロック史上初の野外球場のコンサート=シェア・スタジアム公演だった。

    5万人以上を集めて行われた1965年のニューヨーク/シェア・スタジアム公演。

    当時の様子を伝える記事によく見る表現だが、ビートル・マニアと呼ばれる熱狂的ファンが群衆化した絶叫はジェット機の騒音のようで、未発達のPA設備もあって、肝心の演奏はほとんど聴こえず、ステージ上にはジェリービーンズやぬいぐるみなどが絶えず投げ込まれ、ステージによじ登ろうとする観客と警官隊の追いかけっこが展開された。

    ビートルズは、ホテルから球場までの往復にヘリコプターや装甲車で運ばれ、ファンをまくためにホテルの非常階段を使った。これらを文字で読めば、大成功に伴う戯画的な狂騒のエピソードに見えるが、実際にツアーを行い、ステージに立つ4人には切実な問題で、こうした環境で続けるツアーへの疑問や嫌悪が大きくなり、やがてライヴに対する情熱が失われていく。

    大勝利をもたらした成功の方程式(アルバム、映画、ライヴ・ツアーの3本柱)を従来通り押し進めようとするマネージャーのブライアン・エプスタインと、メンバーの間に齟齬が生まれ始めたのも、1966年だった。

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