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    世界を魅了した女性ドラマー、カレン・カーペンター 〜Karen’s Biography ♯1〜

    • Supervised by Richard Carpenter
    • Text:Cozy Miura
    • Photo:Koh Hasebe/Shinko Music(Getty Images)

    本日2月4日はカーペンターズのヴォーカル、カレン・カーペンターの命日。1983年に32歳の若さでこの世を去ってから40年の節目を迎えました。その美しい歌声で世界を魅了したカレンは、ドラマーであり、「Yesterday Once More」を筆頭に数々の名演を残しています。ここでは2008年2月号に掲載した彼女のバイオグラフィを前後編に分けて再掲載。兄でカレンと共にカーペンターズを創造したリチャード・カーペンターが再構成を加えた内容です。

    ドラムが大好きな女の子

    少女時代のカレン・カーぺンターは、レコードを聴く以外、音楽への興味を示さなかった。1950年3月2日に生まれた彼女は、63年、13歳のときに家族と共にロサンゼルスの郊外の町、ダウニーに引っ越した。カレンが音楽で自分自身を表現したいという衝動に駆られるのは、この翌年のことだ。

    リチャードはダウニー・ハイスクールの4年生(註:アメリカの高校は4年まで)に在籍し、この間、南カリフォルニア大学でピアノを学んでいた。高校のマーチング・バンドのメンバーになれば、体育の授業を免除されることを知った彼は、ある問題に直面する。ピアノは持ち運びができない楽器だったのだ。

    64年の後半、カレンの音楽的才能は開花し始めた。ダウニー・ハイスクールに入学した彼女は、体育の授業が免除されるという理由でマーチング・バンドに入り、グロッケンを担当。バンド・メイトのフランキー・チャベスのドラム・スキルに衝撃を受ける。帰宅したカレンは、箸と朝食用カウンターをドラムに見立て、自分のレコードにリズムで伴奏をつけ始めた。両親が本当のドラム・セットを買い与える頃には、すでにきちんと叩けるようになっていた。

    それから間もなくして、カーペンターズの前身ともいうべきグループが生まれる。カーペンター・トリオが結成された頃、カレンはまだ15歳だった。兄と妹は、リチャードが65年6月に出会ったクラスメートで、チューバ/ベース・プレイヤーのウェス・ジェイコブスと共にジャズを演奏するようになった。

    トリオが演奏する曲は、主にインストゥルメンタルだったが、リチャードの強い要望でカレンがヴォーカルをとることもあった。彼女の独特な歌声は発達途上の状態にあり、本人もそのサウンドに満足していなかった。しかし66年初めには、カレンの声もかなり成熟していた。若干荒削りなところは残っているものの、観客の関心を引くには十分だった。

    カレンとリチャードは、クラスメートの紹介で、西海岸のスタジオ・ベーシスト、ジョー・オズボーンのオーディションを受けることになった。当時オズボーンと彼のパートナーは、レコード・レーベル、“マジック・ランプ”を立ち上げたばかりで、才能ある新人を探していたのだ。オズボーンは日ごろ深夜まで仕事をしていたため、オーディションは午前1時から、サンフェルナンド・バレーにある彼の自宅のガレージで行われた。

    リチャードの演奏とカレンの歌を聴いたオズボーンは「まずはレコーディングから」という決断を下したが、結果は申し分なかった。カレンの歌声はまさに“録音するために授けられたもの”だったのだ。

    66年5月、父ハロルドと母アグネスは、カレンの代わりに駆け出しのレーベルとの契約にサインした。いくつかの曲の中から、リチャードが作曲した2曲「Looking for Love」と「I’ll Be Yours」がカレンのソロ・シングルとして発売された。だが、とりあえずスタートは切ったものの、なかなか先へは進めなかった。マジック・ランプは十分な販促宣伝もできないまま、1年もしないうちに潰れてしまったのだ。

    RCAレーベルとの契約と挫折

    しかし、それから間もなくして、若いアーティストなら誰もが夢見る出来事が実現する。リチャード・カーぺンター・トリオが、66年6月24日にハリウッド・ボウルで開催された誉れ高いアマチュア・コンテスト“The Battle Of the Bands”の決勝に進出し、見事優勝したのだ。

    リチャードは、彼とカレンの好きな飲み物がアイス・ティーだったことから、ウェス・ジェイコブスのチューバとカレンのドラムをフィーチャリングした「Iced Tea」という壮大なインストゥルメンタルを作曲。グループのオリジナリティは審査員の心をつかんだ。もう1曲はスタン・ゲッツやアストラッド・ジルベルトがヒットさせたボサノヴァのクラシック「イパネマの娘(The Girl From Ipanema)」のインスト・バージョンだ。

    リチャードがアレンジしたこの曲は審査員に絶賛され、トリオはベスト・コンボ賞、最優秀演奏者賞(リチャード)、そして最高得点者に送られる賞品を獲得。ハリウッド・ボウルは彼らの勝利の話題で持ちきりになった。

    コンテスト終了後、駐車場に向かうリチャードとカレンに1人の男性が近づいてきた。彼は2人にお祝いを言い、デモを作る気はないかと尋ねた。「私はまだ19歳だったし、うぬぼれが強く、舞い上がっていた。優勝したばかりだったしね」とリチャードは振り返る。「“すでに契約している”と答えると、彼は“事情が変わったら連絡してくれ”と言って名刺をくれたんだ」。

    名刺には天下のメジャー・レーベルRCAの名と共に、“ポップ部門ウェストコースト・マネージャー/ニーリー・プラム”と書かれていた。リチャードは、はやる気持ちを抑えつつ、「妹がシンガーとしてマイナー・レーベルと契約をしたが、トリオとしてはまだ契約していない(リチャードはソングライターとしてマジック・ランプ・レコードの出版部門“ライト・アップ・ミュージック”と契約しているだけだった)」と伝えた。

    するとプラムは、彼らのインストゥルメンタル・サウンドに興味があるから、RCAでテストをしたいと言う。彼はウェス・ジェイコプスの独自性を強調することで“ロック・チューバ”サウンドを作り上げたかったのだ。同年9月、トリオはRCAと契約を結び「Strangers in the Night」、ザ・ビートルズの「Every Little Thing」、後にカーベンターズのヒット曲となった「Flat Baroque」を含む11曲を収録したデモ・テープを作成した。

    しかし、ジャズ・トリオに商業的な可能性を見出さなかったRCAの重役会はこれを却下。RCAでやっていく自信がなくなったリチャードとカレンとウェスは、会社からオファーされた数百ドルを受け取り、契約を解除した。やがてトリオは解散。ジェイコブスはコンサート音楽という新たな道へ進むため、ジュリアード音楽院に入学し、兄と妹はそれぞれ学業に戻った。

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