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本日3月11日はパンテラ、ダメージ・プランなどでその名を轟かせた今は亡きドラマー、ヴィニー・ポールの誕生日。パンテラはチャーリー・ベナンテをサポートに迎えて、昨年末に再始動し、3月25日、26日に開催されるLOUD PARK2023のヘッド・ライナーとして待望の来日を果たす。ここではあらためてヴィニーの功績を語り継ぐべく、『俗悪』リリース・タイミングの1992年に実現した初インタビューを再掲載する!
父親のひと言がなかったら
その後もブラスバンドで下手なチューバを
吹いていただろうと思うよ
●まずは生年月日と出身地を教えて。
ヴィニー 1964年3月11日生まれ、テキサス州アベリーン出身だ。
●ドラムをプレイし始めたきっかけは?
ヴィニー 13歳の頃、学校のブラスバンドに参加することになって、最初はチューバを担当したんだ。それでチューバを家に持って帰って練習してたら、ミュージシャンだった父親から全然なってないぞと言われてね。だったらドラムでもやった方がいいってアドバイスしてくれたんだよ。そのおかげで僕の一生が大きく変わってしまったって言ってもいいだろうね。あの父親のひと言がなかったら、その後もブラスバンドで下手なチューバを吹いていただろうと思うよ。
●それはマーチング・バンドみたいなものだった?
ヴィニー そうそう、ありがちなね。
●すぐにドラム・セットで叩き始めたわけ?
ヴィニー いや、最初の1年間はずっとスネアだけでルーディメンツとかを習ってたんだ。それでそのあとからセットでプレイするようになったんだけど、それからは独学でマスターしていったよ。
●音楽的な家庭環境で育ったと思う?
ヴィニー うん。父親がドラム以外の楽器ならなんでもこなせるミュージシャンだったからね。それから彼はカントリー&ウェスタンのソングライターでもあるんだ。コンウェイ・トゥイッティなんかの有名どころのアーティストにも曲を提供しているんだ。
●ドラムを始めた頃はどんな音楽を聴いていた?
ヴィニー ロックンロール。ヴァン・ヘイレン、オジー・オズボーン、キッスとかね。あと、パット・トラヴァースがすごく好きだった。ドラムを始めて2、3年後にパット・トラヴァース・バンドのトミー・アルドリッジを観て、その影響でツーバスをプレイするようになったんだ。それからジョン・ボーナムのプレイも好きだったな。
●その後、ドラム以外の楽器に興昧を持ったことはある?
ヴィニー キーボードをちょっと触ったくらいかな。その他にもいろんな楽器を試したことはあるけど、どれもドラムほど熱心に取り組もうという気にならなかったんだ。
●いつもどんな練習をしてるの?
ヴィニー 古いレコードを引っ張り出してきて、お気に入りのフィルインをコピーしたりしてるよ。でも、前作の『Cowboy From Hell』をリリースしてからライヴを370本こなして、それからすぐ新作の曲作りを始めたから、ここのところあまり練習する機会が持てないんだよね。
●最初のドラム・セットはどういうものだった?
ヴィニー カムコのセットを父親に買ってもらったんだ。確か400ドルくらいだったと思う。シングル・バスにスリー・タムで、ハードウェアはパール製だった。すごくいいセットだったから、今でもちゃんと持ってるよ。
●家で練習してたの?
ヴィニー うん。昼間のうちは大丈夫だったんだけど、さすがに夕方以降はヤバイって雰囲気だったな。スピーカーを天井から吊り下げてレコードをフル・ボリュームでかけ、それに合わせてプレイしてたんだ(笑)。
●バンドでプレイし始めたのはいつ頃?
ヴィニー 弟(ダイアモンド・ダレル)は今ではギターを弾いてるけど、最初はアイツもドラムをやってたんだ。でも俺の方がずっと早く上達したから、奴はすっかりやる気をなくしちゃってね。それで父親が彼にギターを買ってあげたんだ。だけどそれから6ヵ月間ぐらいは全然練習しなくてね。でもたまに部屋を覗いたりすると、弟がキッスのエース・フレーリーのメイクをして、ギターをぶら下げてベッドの上を飛び跳ねているわけ(笑)。それで俺が、少しでも弾けるんだったらジャムることができるのにって言ってやったんだ。
6週間後、奴がやっと弾けるようになったって言うんで、一緒にプレイしてみたんだけど、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」しか弾けなくてね。だから2時間くらいそればっかりやってたという(笑)。まともに活動したバンドといえば、その弟と今こうして一緒にやっているパンテラだけだよ。このパンテラは俺とダレルが83年に結成したんだ。ベースのレックスとは高校の頃ジャズ・バンドで一緒にプレイしててよく知ってたから彼を誘ったんだ。その後86年にヴォーカルが交代して以来、ずっと今のラインナップで活動してるんだよ。
●プロになろうと思ったのはいつ頃?
ヴィニー 特にプロになろうと思ってはいなかったんだけど、バンドを結成して、曲を作ってパーティなんかでプレイしているうちに自然にプロになっていた、っていう感じなんだ。84年から87年まで、1時間15分のライヴを1日3回週に6日間というペースで、あちこちのライヴ・ハウスに出演してたよ。当時はお気に入りのバンドのコピーばかりやっててね。ジューダス・プリースト、モトリー・クルー、ブラック・サバス、メタリカなんかの曲をプレイしてたんだ。
他のバンドはダンス・ミュージックをやってたから、俺たちは目立っちゃって、そのせいでファンを増やすことができたよ。そうやって活動していくうちにある程度お金がたまったから、自費でレコードを出すことができたんだ。そして自主レーベルで4枚アルバムを発表した後、アムコと契約することになったんだよ。
●プロで活動していくことについて、両親はなんて言ってた?
ヴィニー 両親は今までずっと俺たちの好きなようにやらせてくれたからね。だからこうしろなんて強制されたことはないんだ。とにかくやるんだったら最善を尽くすようにって言われたくらいだね。
●もしドラマーにならなかったら、どんな仕事をやってたと思う?
ヴィニー 音楽プロデューサーかスポーツ選手になっていたかもね。自主制作時代のアルバムはすべて俺がプロデュースしてるし、前作と今回のアルバムも共同プロデューサーだったんだ。父親がレコーディング・エンジニアみたいな作業もこなしてたから、その影響でいろいろ音をイジることに興昧を持つようになったんだ。
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