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Archive Interview−ジョン・ブラックウェルJr.

  • Interview:Rhythm & Drums Magazine/Translation & Interpretation:Akira Sakamoto
  • Photo:Andrew Lepley/Getty Images

大きなカウボーイ・ハットを被ったドラマーが7点セットを叩いていて
とてもカッコ良かった。その彼というのがアート・ブレイキーだったんだ

本日7月4日は17年に43歳の若さで急逝したジョン・ブラックウェルの命日です。2000年にプリンスのバンド=New Power Generationに抜擢されて注目を浴び、宇多田ヒカルやクリスタル・ケイらのツアーでも活躍。日本のファンにも愛されたドラマーでした。ここではそのルーツを語った04年2月号のインタビューを転載。

●まずは、あなたが育った音楽環境と経歴について、詳しくお聞きしたいのですが……。

ジョン OK! 僕の親父のジョン・ブラックウェル・シニアはドラマーで、祖母のボーリーン・ブラックウェルは教会で歌っていた。祖父のアーネスト・ブラックウェルも教会で歌っていたけれど、彼はもともとジーン・クルーパが大好きで、自分でもドラマーになりたいと思っていたんだ。祖父にはドラマーになるチャンスがなかったけれど、親父が幼い頃から家にあった鍋やフライパンを叩いて遊ぶようになると、ドラム・キットを買い与えたんだ。高校生にもなると、親父は友達とバンドを組んで、その後もドラマーとして長年活動した。ドリフターズ(アメリカのコーラス・グループ)やジョー・サイモン、J.J.ジャクソン、スピナーズ、メアリー・ウェルズといったアーティスト達とも共演したし、今でもその会社でコンピューター・エンジニアとして忙しく働く合間を縫って、クラブに出演しているんだ。僕自身の音楽環境も親父と似たようなものだった。3歳のときにドラム・キットとレコード・プレーヤー、それに、親父のレコード・コレクションをプレゼントしてもらったからね。コレクションの中には、パーラメンツ、ジェームス・ブラウン、コモドアーズ、プリンス、ジャクソンズ、マイケル・ジャクソン、ハービー・ハンコックなんかのレコードがたくさん合った。

親父は仕事が忙しくて、ドラムを教えてくれることは滅多になかったけれど、教えてくれるときにも、彼は居間にあったドラムで練習する様子を僕に見せて、練習が終わるとスティックを手渡して、僕を1人残して部屋を出て行く。そして僕は、今見たことを思い出しながら、いろいろ実験してみるっていう具合いだった。僕は親父のマネをするだけじゃなく、レコードに合わせて練習することもあったけれど、アリーナでコンサートをやっているつもりでドラムを叩くこともあったんだ。「もう1曲聴きたいかい? それじゃあ、いくぞ!」なんて言いながらね(笑)。しかも、顔に水しぶきをかけて、汗をかいているような雰囲気まで作るという念の入れようだった(笑)。

親父に連れられて、街にやって来るいろいろなアーティストのコンサートを見に行っていたからね。テディ・ベンダーグラスやコモドアーズ、ルーサー・ヴァンドロス、ギャップ・バンド、キャメオ、それから1984年にジャクソンズを見たときには、ドラマーが親父の大好きなジョナサン・モフェットだった。そういう人達の演奏を3歳の頃から見ていた僕は、自分もドラマーになりたいと心に決めていたんだ。僕はその頃からプリンスが大好きだったけれど、家に遊びに来て僕の演奏を聴いた学校の友達からも「すごいな、ジョン、そのうちマイケル・ジャクソンやプリンスと共演するようになるんじゃない?」って言われていたよ。

●当時は主にR&Bやソウルを聴いていたようですね。

ジョン そうだね。3歳から14歳頃にかけての僕は、ゴスペルとファンクしか知らなかったよ。それにクラシックがほんの少しかな。でも、14歳のあるとき、地元のテレビ局でやっていた“BETジャズ”という番組を見ていたら、大きなカウボーイ・ハットを被ったドラマーが7点セットを叩いていてね。その彼がバンドを率いて演奏する姿がとてもカッコ良かったんだ。その彼というのがアート・ブレイキーだった。それまでに親父が話してくれた偉大なドラマーと言えば、ヨギ・ホートンとジョン“JR”ロビンソン、ジョナサン・モフェットくらいなものだったけれど、アート・ブレイキーを見たのがきっかけで、僕はジャズに興味を持つようになったんだ。そして、地元の“パパ・ジャズ”という店にジャズのテープを買いに行った。店の名の通り、そこの人達はみんな、ジャズのことならなんでも知っていたからね。それで、アート・ブレイキーのテープを買うときに、他にどんな人がオススメか聞いたら、「トニー・ウィリアムスとビリー・コブハムを聴いてごらん」って言われて、その2人のテープも買ったんだ。

●そのテープは何だったか覚えていますか?

ジョン ブレイキーはブルーノートのベスト盤で、ビリー・コブハムが『パワー・プレイ』、トニー・ウィリアムスは『ネイティヴ・ハート』だったね。その後、マイルス・デイヴィスやチャーリー・パーカーなんかも聴くようになったし、フィリー・ジョー・ジョーンズを知ってからは、彼にかなりのめり込んだね。それから、ハービー・ハンコックの『ヘッド・ハンターズ』やライヴ・アルバムの『フラッド』を聴いたな。

高校の最後の夏には、アレックス・イングリッシュというサウス・カロライナ出身の有名なバスケットボール選手が、大きな邸宅に有名人や才能あるアーティストを招いて事前コンサートを開いたんだけれど、その中にビリー・エクスタインがいて、彼はピアノ・プレイヤーしか連れて来なかった。それでドラムをジョン・ブラックウェルにというご指名があって、僕が彼のドラマーを務めることになったんだ。

●高校3年生でですか!? すごいですね。

ジョン 多分、親父と間違えたんだと思うんだけれどね(笑)。親父も同じジョン・ブラックウェルだからさ。まぁ結果的には、僕にとって大物と共演する最初の機会になったわけだけれど、僕は彼が歌う姿を見たことがあるだけで、名前は知らなかった。だから、アート・ブレイキーもビリー・エクスタインのバンドでドラムを叩いていたことを知ったときにはもう、びっくりして、そこで初めて緊張したんだ(笑)。

●演奏する前じゃなくて良かったですね。

ジョン そうだよね。その後、僕はバークリー音楽院に入学して、他の学生達と同じように、学校の近くのウォーリーズ・カフェで演奏しては小金を稼いでいた。ウォーリーズには、ジェフ・ワッツやブランフォード・マルサリス、マーヴィン“スミッティ”スミス、トミー・キャンベルとか、ミュージシャンがたくさん出演していたから、ファンク・ドラマーにとってもジャズ・ドラマーにとっても、そのカフェが素晴らしい訓練の場になっていたんだ。勉強を続ける一方で、いろいろなミュージシャンと共演する機会を持つように心がけたね。

そしてサウス・カロライナの実家へ帰るよりも、素晴らしいドラマーをたくさん輩出したジョージア州アトランタへ通って、地元出身のソニー・エモリーとか、僕の恩師でもあるマーカス・ウィリアムスやジミー・リーとか、いろいろな人のライヴを見たんだ。そのうちに、僕はマーカス・ウィリアムスやジミー・リーからトラを頼まれるようになった。まだバークリーの学生だった1994年の秋頃には、ビービー&シーシー・ワイナンスというゴスペル・デュオのオーディションを受けたけれれど、それには受からなくて落ち込んでいたら、ジミー・リーから僕のことを聞いてオーディションを見に来ていたフレディ・ボーイ(vo)が、チャンスはこれからまだまだたくさんあるし、僕も何か紹介できるかもしれないからと慰めてくれたんだ。それから数ヵ月経った、1995年の2月、あるジャズのギグが終わって、当時住んでいた寮に戻ると、フレディ・ボーイから僕に電話だっていうんだ。廊下の電話を取ると「キャメオのラリー・ブラックモンがドラマーを探しているんだ。やる気はないかい?」、「えっ、でも僕は学生だからさ、ツアーに出るのを親父が許してくれるかどうか……」、「それじゃあ、15分だけ待つから、親父さんに聞いてみなよ」──というわけで、親父に電話をしたら、ツアーに出るのを許してくれたんだ。それで僕は、キャメオのドラマーになったんだ。ラリー・ブラックモンも素晴らしいドラマーだから、キャメオでの活動はとてもいい経験になった。

で、キャメオで3年間活動した後、僕は1998年からR&Bシンガーのパティ・ラベルの伴奏を務めるようになったけれど、ラリー・グラハムとプリンスが、僕の演奏を聴くために彼女のコンサートを何度か見に来てね。で、あるコンサートが終わったあと、ラリーが僕のところに来て「いやぁ、君は素晴らしいね。僕の名刺を渡しておくから、随時連絡を取り合おう」と言ってくれたんだ。もちろん、僕は「ハ、ハイ、よろしくお願いします」なんて応対していると、ラリー・グラハムの後ろから姿を現したのが、何とプリンスだったというわけ。僕はもう、どうしていいかわからなかったよ。

Prince✖️ジョン・ブラックウェルJr.の代表作