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あれもイイね、これもイイねで
いちいち“なんじゃこりゃ!!”みたいな感じだった
●16歳にしてすでに本場“アメリカ”の音楽に触れたわけですね。
山木 米軍基地の周りのクラブで演奏したり、年に1回、基地の中でフェスティバルがあって、ものすごく大きい飛行機の格納庫にお客を入れて、本土から呼んだいろんなバンドに混ざって演奏したりね。フォートップスみたいなグループとか、サイケデリックの時代だからジミヘンみたいなバンドとかいっぱい来てた。当然楽器も“アメリカ”の楽器しかなくて、ロジャース、グレッチ、ラディックが並んでて、欲しくて欲しくてしょうがなかったけど、自分のギャラじゃ手が届かなかった。
●一部の人だけが輸入盤で情報を得ていた時代に、本場のバンド演奏を生で体験するどころか、一緒に演奏もしていたわけですね。
山木 ジミヘンとかウィルソン・ピケットとかJB’sとかヴァニラ・ファッジとかCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル)とかツェッペリンとか、当時流行っていたものは全部カヴァーしてた。しかも、僕がいたバンドのマネージャーがイタリア系アメリカ人で、その人がDJでドラマーだったんだけど──だから基地の中でも外でもいろんな仕事ができたわけ──、その人がドラムもすごく上手で、少し教えてもらったりしたし、沖縄の地元でも、“コンディション・グリーン”とか、“紫”の“CHIBI”ってドラマー(宮永英一)とか、そういうミュージシャンもたくさんいて、一緒にパーティーをやったり、仕事が終わるとミュージシャンが集まるコザのバーに僕もよく出入りしてたしね。あとは、その頃、フィリピンのプロダクションが沖縄に100くらいのバンドを送り込んで、いろんな場所で演奏させてたのね。みんなコピーをやらせたらものすごく上手だったし、ハーモニーも最高だったんだけど、演ってる場所が小さいから、ものすごくスケールの小さいハード・ロックというか、オモチャのスモール・ワールドを見てるみたいでね、なんだか面白かった。東京にもいたでしょ、(デ・)スーナーズとか。そういうバンドが沖縄にいっぱいいたから、あれもイイねこれもイイね、で、あれもうまいしこれもうまいし、基地の中のいわゆるR&Bとかソウルを演ってるバンドがもう、いちいち“なんじゃこりゃ!!”みたいな感じだった。
●山木さんは、海外での活動や外国人との活動が非常に多い日本屈指のドラマーだと思いますが、そもそもこの時期の沖縄での経験によって、“海外”に対する精神的な垣根がないのでしょうか。
山木 沖縄のクラブで演奏してると、お客もファンもアメリカ人ばっかりだし、黒人バンドの人にも「一緒にアメリカ行って演ろうよ」とか言われたり、友達になった白人の兵隊ともお互いの家を行き来したり、すごく仲良くしてた人もいっぱいいるから、コンプレックスもないし、それが普通だった。
●でも、16歳の頃から、文字通り“外国”にいたということですもんね。そういう生活はいつまで続いたんですか?
山木 ビザの関係もあって、沖縄に3ヵ月いて、熊本に帰って、また行って3ヵ月いて、っていうサイクルで2~3年やってたから、18歳くらいまで沖縄にいたのかな。で、その後は地元の熊本に帰って、“MUGEN”っていうディスコでハコバンの仕事をしてた。その頃はソウル・ミュージックが好きだったからよく演奏してたね。お店の人に「(演奏するのは)どういう音楽?」って聞かれて「ソウル・ミュージックです」って言ったら「じゃあ看板にそう書いておきます」って、後で看板見たら「韓国のソウルからやって来たバンド!」って書かれてた(笑)。まだそういう時代。
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