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    Story of “The Beatles” in 1966〜ビートルズ来日55周年記念〜

    • Text:Satoshi Kishida
    • Photo:ullstein bild/Getty Images

    初来日コンサート

    1966年6月、『リボルバー』の録音を終えたビートルズは、結果的に最後となるワールド・ツアーに出発。ドイツ公演の後、同月29日午前3時40分、羽田空港に到着。初来日コンサートのため、ついに日本の地を踏んだのだった。

    同日午後、滞在先の東京ヒルトン・ホテルで記者会見を行ったあと、7月2日までの3日間に計5回のコンサートを日本武道館で行い、のべ5万人を動員。日本公演は、ブライアン・エプスタインのアジア戦略として、ビートルズ・サイドからの強い希望もあり実現したもので、日本武道館がロック・コンサートに使われたのは、これが初めて。「神聖な武道館を使わせるな」という右翼団体やアンチ・ビートルズの声や、ビートルズを観に行ってはいけないと通達を出した学校などもあり、コンサート3日間に、機動隊員・警官延べ5,500人が配備される物々しさだった。

    1回のコンサートは2部構成で、第1部に日本人出演者が登場し、第2部でビートルズが演奏。日本人出演者には、ザ・ドリフターズ、尾藤イサオ、内田裕也、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルー・ジーンズ、望月 浩、桜井五郎。

    ビートルズの演奏曲は「ロックン・アンド・ロール・ミュージック」、「シーズ・ア・ウーマン」、「恋をするなら」、「デイ・トリッパー」、「ベイビーズ・イン・ブラック」、「アイ・フィール・ファイン」、「イエスタディ」、「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」、「ひとりぼっちのあいつ」、「ペイパーバック・ライター」、「アイム・ダウン」の11曲。コンサート・チケットはA席2,100円、B席1,800円、C席1,500円だった(2,100円は、当時の大卒初任給の約10分の1に相当)。

    常にホテルでの缶詰状態を強いられるビートルズは、リハーサルを行わず直接本番のステージに現れていたようで、当時の音源などを聴くと、演奏の完成度にあまり高くない印象だが、ロックンロール・バンドのベース・ラインを保持しつつ、『リボルバー』セッションで録られた最新シングル「ペーパーバック・ライター」もしっかり演奏し、全11曲にビートルズの急速に変遷するさまざまな顔も感じられる選曲になっていた。

    放映権を得た日本テレビは、6月30日と7月1日昼の部のコンサートを収録したが、30日の映像はエプスタインからNGが出て、1日昼の部の演奏が1日夜9時から特番で放映され、60%の視聴率を記録する。

    5回のステージを無事終えたビートルズは、7月3日朝10時38分に再び羽田空港から、次の公演地、フィリピンのマニラに向かうが、マニラ公演で起こった悪夢と、その後のアメリカ・ツアーの経験が、ビートルズがライヴ活動停止を決定する直接の引き金となる。

    ライヴ活動休止を決定

    マニラでは、スタジアム2回公演で8万人を集めたが、マルコス大統領主催の歓迎パーティに出席しなかったことが、現地サイドの連絡ミスから国家的な侮辱と受け取られ、帰国の空港で激怒した市民にエプスタインが暴行を受け、コンサートの収益すべてを返還せざるを得ない事態となった。

    それに続くアメリカでは、誤って報道されたジョンの「キリストより人気がある」発言が反感を買い、メディアのバッシングで排斥運動が過熱させ、脅迫電話に生命を脅かされた。8月21日のセントルイス公演で、雨天で感電の危険がある中、演奏を強要された際に、ライヴ続行を最後まで主張したポールもついに折れ、8月29日のサンフランシスコ、キャンドル・スティック・パーク公演をもって、コンサート活動に終止符を打つことが決まったとされる。

    再生のための1966年

    しかし、ライヴ活動の終わりは、先に紹介したジョンの「ヘルプ!」の無意識の叫びから、すでに始まっていたとも言える。アイドルであることを求めるファンやマネジメントの期待と、スタジオ・ワークで実感した音楽的探究の楽しさやアーティストとしての自信、その2つに引き裂かれた1965~1966年が、至りつく結論はそこにしかなかった。実際『ラバー・ソウル』や『リボルバー』で作り上げられたサウンドは、ライヴ・バンドとしてのビートルズを完全に追い越していたのだ。

    ビートルズの新しい「分身」を作るというポールのアイディアから始まったアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の制作は、1966年11月に開始され、年をまたいで、1967年4月まで5ヵ月間の最長のレコーディングとなる。67年8月にブライアン・エプスタインが急逝するのも象徴的で悲しい出来事だが、1966年は、ビートルズにとって、それまでの自分達を葬り、新しい自己を獲得するための新生、生まれ変わりの年として避けて通れない、決定的に重要な年であったのだ。

    参考文献:『ビートルズ事典』香月利一著(1974)、『ビートルズ全曲解説』ティム・ライリー著(1990)『ジョンとヨーコ ラスト・インタビュー』デービッド・シェフ著(1990)、『ビートルズ・ギア』アンディ・バビアック著(2002)、『シンコーミュージックムック MUSIC LIFE ザ・ビートルズ来日前夜』(2016)、『「ビートルズと日本」熱狂の記録』大村亨著(2016)


    本記事はリズム&ドラム・マガジン2016年7月号の特集「1966年のリンゴ・スター」に掲載した原稿に再編集を加えたものです。

    ビートルズの来日50周年を記念した本特集では、武道館公演におけるリンゴ・スターの奏法を分析する他、当時のリンゴが愛用していた機材を徹底検証! さらに盟友=ジム・ケルトナーがリンゴについて語る独占インタビューも実現。保存版の内容となっております。