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Story of “The Beatles” in 1966〜ビートルズ来日55周年記念〜

  • Text:Satoshi Kishida
  • Photo:ullstein bild/Getty Images

レコーディング主体の活動へ

1964年7月イギリス発売の3作目『ハード・デイズ・ナイト』で、すでにビートルズは初の全曲オリジナル曲(しかも粒ぞろい)のアルバムを仕上げていたが、65年の『ヘルプ!』、『ラバー・ソウル』、そして66年の『リボルバー』からは、レコーディングに音楽的自由を見出し、スタジオ・ワークの面白さにのめり込み、サウンドの冒険を繰り広げていく。

やがてその実験は、67年、ロック史に輝く金字塔的アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に結実するが、1965年、66年という年は、彼らがライヴからレコーディング主体の活動へ、軸足を移していく時期でもあった。 

アルバム『ヘルプ!』の冒頭を飾る同名曲を、ジョンは後に「僕もそのときはわからなかった、でも後になって自分は助けを求めて叫んでいたんだと気がついた」(1980年の「プレイボーイ」誌インタビュー)と痛々しく振り返ったが、ジョンのこの曲「ヘルプ!」は、アイドル・バンドから脱皮すべく、変化と進化を求める彼らの最初の叫びだった。

また、ポールが弦楽四重奏をバックに1人で歌う「イエスタデイ」は、ギター、ベース、ドラムというロックンロール・バンドの基本型にこだわらない初の試みとなり(ジョージ・マーティンのアイディアだが)、ビートルズを騒音と捉えていた人達の見方も変える1曲になった。

1965年10月からレコーディングに入った『ラバー・ソウル』は、さらに通常のロックンロールのカテゴリーを超えて、幅広い音楽スタイルを採用。音響面でもさまざまなスタジオ・テクニックを発案して、ビートルズが制作のイニシアチヴを取った初めての作品である。「ノルウェーの森(ノーウェジアン・ウッド)」でジョージは初めてシタールを使い、その後のインド音楽への扉が開かれる。

「イン・マイ・ライフ」では、テープの回転速度を遅くして録音し、元の速度で再生してピアノをチェンバロ/ハープシコードのように聴かせる手法などを考案した。ドラムに加えて、タンバリン、マラカスなどのオーバーダブが随所で使われ、リズム面も重層的な厚みを加え、「ユー・ウォント・シー・ミー」「イン・ マイ・ライフ」の変則的リズム・パターンや、「ひとりぼっちのあいつ」のドラム・ロールを使ったフィルなど、リンゴの斬新なアイディアはオリジナリティに溢れる。リンゴのヴォーカル曲「消えた恋」は「レノン=マッカートニー=スターキー」とリンゴが作曲クレジットに加わった一度限りの曲だ。

『リボルバー』と1966年

そして1966年。ビートルズは創造性のピークに達しようとしていた。同年4月に制作がスタートした7作目の『リボルバー』は、300時間という空前のスタジオ作業を経て、アートとロックが結びついた才気溢れるサウンドを展開。バンド・メンバーに限らず、ブラス・セクション、タブラ奏者、ストリングス隊、フレンチ・ホルンなどのセッション・ミュージシャンを呼び、サウンド面でも、史上初のテープループやテープの逆回転、ヴォーカルにエフェクトをかけるなどといった斬新な手法を積み重ねた。

リンゴは本作について、本誌掲載のインタビューで「『リボルバー』で、やっとバス・ドラムの音が聴こえるレコードを作ることができた。ドラマーとして開花した」という主旨のことを語っているが、ポールのリッケンバッカーのパンチのあるベース・サウンドに、リンゴのドラムが絡み、迫力あるグルーヴを生み出す点も聴きどころだ。「タックスマン」で始まり「トゥモロー・ネバー・ノウズ」の終わる構成も、ある種の「循環」を思わせる。

ちなみに、強力な低音をクリエイトできた要因には、20歳の若さで本作のチーフ・エンジニアに抜擢され、後に『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』でグラミー賞を獲得するジェフ・エメリックの存在が大きい。彼が考案したドラムの録音手法には、現在スタンダードになっているものも多く、打面近くにマイクを接近させるクローズ・マイクや、バスドラの中に毛布(当初はセーターだった)を入れるミュート法は、彼が始めたアイディアだったという。

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