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【ドラマー三嶋RACCO光博が起こすInnovation  “the RACCO WORKS”】 1st Innovation:Music×Business(前編)

  • Interview & Text:Rhythm & Drums Magazine

1995年、ロック・バンド=シアターブルックのドラマーとしてメジャー・デビューを果たした三嶋RACCO光博。約1年ほどでバンドを脱退した彼は、ミュージシャンでありながらも持ち前のキャラクターを生かし、ビジネスマンとして、セッション・ドラマーとして、ドラム講師として、古式 三年番茶の生産者として、ソーシャル・ワーカーとして、ボーダーレスに活躍の場を広げている。そんな彼の現在をマルチな視点から紹介すべく、音楽、ドラム、三年番茶……コロナ禍以降の新時代に求められる“Innovation”をキーワードに、ドラマー三嶋RACCO光博を多角的に掘り下げていく!

1st Innovation:Music×Business(前編)

ドラマーでありながら
バンドの営業的な活動もしていた

●今回から数回に渡って、ラッコさんがこれまでに活動の中で起こしてきた“ドラムとのInnovation”についてうかがっていきたいと思います。

RACCO もともと自分のことよりも他人のことが気になっていて、誰かの支援とかが好きでいろいろやっていて。他人のために自分がやれることを見つけて、そのために僕ができること……みたいに基本考えているのかな。そういう視点からのInnovation気質は昔から強かったかもですね。

●ラッコさんは鹿児島県で生まれて徳島県で育ち、95年にエピックソニーレコード(旧名)からシアターブルックのドラマーとしてミニ・アルバム『CALM DOWN』でメジャー・デビューするわけですよね。

RACCO はい。97年に脱退するんですけど、バンド自体は8年やっていたので、自分の中では結構長くやっていた感覚がありますね。当時から(佐藤)タイジさん(vo、g)の存在感と才能……天性のトレンドを掴む勘みたいなものは本当にすごかったから、彼をもっと世の中にプッシュしようみたいな気持ちが自分の中では強かったんです。当時の僕はとにかく生意気で(笑)、もともとSelfish RecordsというS.O.B.やGauze、Lip Creamとかハードコアの老舗レーベルから作品をリリースしていたので、メジャーに行ったからといってポップ・ミュージックをやるみたいな考え方ではなく、個人的には海外でも活動できるようなイメージを持っていました。しかも僕はおしゃべりで人懐っこいところもあったので、ドラマーでありながらバンドの営業的な活動もしていたんです(笑)。所属はエピックソニーだったのにCBSソニーの販促スタッフとエピックソニーで会議をしてもらって「同じソニーなんだから一緒に売り出してよ、何か販促物を出してよ」とか言ったり、フライヤーを持って自分から積極的にシアターブルックのライヴに誘ったりしていましたね。

●今の時代こそ、そういうプレイイングマネージャー的ことをする人はいると思うのですが、当時はめずらしかったのでは?

RACCO そうですね。僕は演奏もするけど、レコード会社のスタッフとよく企画の話をして一緒に盛り上がっていました。裏方の人と仲が良かったんです。いつだったか、“ウチの営業が束になっても敵わない”とか言われたり……でもまあ生意気だったと思います(笑)。

●ラッコというニックネームで呼ばれるようになったのは?

RACCO Flying Mimi Bandの小林泉美さん……ミミちゃんにラッコって名づけてもらったんですよ。彼女の息子が10歳のときに、DJがかける音楽に対して僕が寝っ転がってリズムを取っていたのを見て“ラッコちゃん”って(笑)。ミミちゃんは凄腕キーボーディストだったんですけど、ロンドン在住でCISCO RECORDS UKの社長もやっていたので、最先端の音楽をとにかくたくさん教えてくれましたよ。当時彼女はフランスで開催される、世界中の新人アーティストの見本市、MIDEM(国際音楽産業見本市)に入れる権利を持っていて、世界の音楽業界の様子をずっと見ていたんですけど、僕に海外の音楽情報を教えてくれて。当時の日本では、ほぼ知られていなかったジャングル・ビート……今でいうドラムンベースなんかも僕は少し先に知っていたんです。ラガマフィン(ダンスホール・レゲエの1ジャンル)もシャバ・ランクスが売れる前から教えてもらっていて、イギリスの海賊放送でDJが最新の音楽を勝手にかけたりするんですけど、ロンドンの子供達はそれを聴いて学校で話題にしていて情報が入ってくる……とか。しかもミミちゃんは面白いと思ったリズム・パターンをドラム譜面にしてくれるんですよ。だからそれをいち早く練習して取り入れてシアターブルックに持ち込んだりしていましたね。当時家にあったDJ用のターンテーブルと大きなJBLのスピーカーで新しい音楽を浴びるように聴いてました。

●いろいろなつながりから世界が広がっていた感じなんですね。

RACCO 当時はジャミロクワイが来日したら遊び場……面白いクラブをアテンドしてあげたり、とある洋楽のバンドがベスト盤を出すという話を聞いて、「確かこの曲は日本盤に入ってないから海外から取り寄せてみれば?」と言って取り寄せたら、めちゃくちゃ良かったのでそのベスト盤に入ることになったり。ドラマーなんですけどそんなポジションだったんですよ。自分としては仕事というより遊んでいた感覚の方が強くて、人の気持ちを盛り上げていくのが得意な気質というか……ただのお祭り男なだけですかね(笑)。だからバンドもそんな感じでやっていました。

●でも、1stフル・アルバム『TALISMAN』の後、脱退されたんですよね?

RACCO シアターブルックのことはまたの機会にじっくり話そうと思いますが、簡単に言うと僕のやることがなくなったのかなって思ったんですよね。メジャーの契約直前までは、先ほど話したようにドラマーと並行してバンドのプロモーションとかいろいろやってましたけど、エピックソニーレコードにそういうスタッフはもちろんいるしディレクターもつくので、ドラマー以外の役割がなくなって。もちろんドラマーとしてもっと自分の持っているものを高めたいと思っていたし、僕自身がロックよりもテクノだったりトランス、ドラムンベースみたいなダンス・ミュージックを突き詰めたいという気持ちにもなっていたし、自分でも作詞作曲ができるようになりたいとか、そんなことも思っていました。タイジさんは中学の頃から知っている地元・徳島の先輩だし、バンドは大好きなので、自分自身が成長して、みんなに恩返しができるように一旦卒業……みたいな感覚だったかもしれないですね。しかも国内だけでなく海外でも活躍したいという気持ちが強かったので、バンドを離れて少しの間ロンドンに行くことにしたんですよ。

●ロンドンはいかがでしたか?

RACCO 現地のDJと話したときに、「僕は日本人で、日本はここが遅れている、ここがダメだ」なんて常套文句みたいなことを言ったら、いきなり彼が怒り出して「お前、日本人なんだろ? ここはインターナショナルな街だ。自分の国を愛している、自分のアイデンティティに自身を持ってるやつしかここにはいない。お前、ダメってなんだ?日本が遅れてる?なんだそれは?自分の国を愛せない人間がどこにいるんだ」って。滞在していたのは短い間でしたけど、「日本人のアイデンティティってなんだろう」と考えるようになり、そういうこともあって日本に帰ってきたんです。