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ジョン・ボーナム[レッド・ツェッペリン] パーフェクト・バイオグラフィ Vol.04

  • Text:Satoshi Kishida

死後40年以上経った現在も世界中の演奏家に影響を与え続けるレッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム。彼の功績を語り継ぐべく、その命日(9月25日)からスタートした、2003年6・7月号掲載の“パーフェクト・バイオグラフィ”の転載企画Vol.04では激動の10年間の序盤にフォーカス!

限りなき戦い~激動の10年の幕開け~

70年1月9日ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールのパフォーマンスの成功は、アルバム『Ⅱ』が英米の両チャートで同時に1位となった時期と重なり、ツェッペリンの人気と評判を大いに高めることになった。だがそれはまた70年代という、彼らが切り開いていく栄光と、それに影のようにつきまとう不幸の入り混じった10年間の幕開けともなっていた。ジョン・ボーナムとツェッペリンの残りの10年の活動を追っていくことにしよう。

70年は、2~3月のヨーロッパ・ツアーのあと、すぐに北米に飛び、3~4月でアメリカ・ツアーが組まれた。すでに彼らは活動を開始した68年9月から1年半、まったく休まずにツアーとレコーディングをこなしていた。疲労は確実に蓄積し、ヨーロッパ・ツアー直前にはプラントが自動車事故に遭ったり、ツアー中も4月のアリゾナで演奏中に卒倒し、翌日のラスベガス公演は声が出ず中止になったりした。70年のアメリカ・ツアーの目的は、ファンの一層の拡大とされ、コンサート会場は軒並み1万人以上のスタジアム・クラスになったが、これがツェッペリン自身を困惑させる結果に結びついた。彼らのパフォーマンスは、数万のファンを熱狂させると同時に狂乱に陥れ、会場警備の地元警察には、それが暴動発生の可能性として取られたのだ。ボーナムの「モビー・ディック」はすでに壮大なソロとなっており、素手やゴングを使ったプレイは観客を大いに煽った。3月のピッツバーグ公演は、観客と警察隊とのトラブルが原因でコンサートは途中中止となる。

ひとまずツアーを終えた彼らが、3枚目のアルバムをウェールズ、サウス・スノウドニアの静かな環境で制作したのは、ツアーの狂乱から離れ、疲労を癒したいという欲求もあっただろう。内容がブリティッシュ・トラッドの影響を感じさせる新しい方向性を示しているのは、聴かれる通りである。レコーディング後、彼らは再びツアーに出発。6月のイギリス、バース・フェスティバル出演(ワイト島フェスと並ぶ大規模なもの)、ドイツ・ツアーのあと、8~9月に6回目のアメリカ・ツアー。9月4日のロサンゼルス、イングルウッド・フォーラムのライヴは、海賊版『ライヴ・オン・ブルーベリー・ヒル』としてその数週間後に一部レコード店の店頭に並んだが、この時期の伝説的ライヴとして今だに有名である。ボーナムはこの頃からグリーン・スパークルのセットを使い始めている。

翌71年、1~2月を4作目のアルバム制作にあてるため、再びサウス・スノウドニアに戻り、ハンプシャー州ヘッドリィ・グランジでレコーディングを開始。生活を共にして作られたのは、彼らの記念碑的作品となった。その後の3月の英国ツアーは「バック・トゥ・ザ・クラブ」ツアーと呼ばれ、聴衆との直接的接触を取り戻すため、敢えて小さなクラブでプレイした。だが続くヨーロッパ・ツアーでは、以前から問題だった熱狂的な観客と警備陣とのトラブルが現実の悲劇を生み出してしまった。6月5日、ミラノでフェスティバルのトリを務めた彼らがステージに上がり、ボーナムが「モビー・ディック」を終えたあたりで、警備警官達が突然、警棒を持って客席に踏み込み、観客目がけて催涙ガスを発射したのだ。多くのファンが負傷し、観客は暴徒化してステージに押し寄せ、機材は盗まれ破壊された。4人は演奏を中止し楽屋に逃げ込んだ。この事件はツェッペリンの全キャリア中でも最悪の出来事と呼ばれ、メンバーの心に深い傷を残したと言われている。音楽を楽しむ観客に対する警察権力の暴力的な介入を目の当たりにして、プラントは後に、自分達の演奏の意味を皮肉っぽく語っている。だが一番深い傷を負ったのは、ボーナムだったかもしれない。この後、彼はしばしばライヴ前に「ステージに上がるのが怖い」と周囲に漏らしたという。だが意気消沈したバンドを立ち直らせたのも、やはりライヴでありファンだった。8~9月の7回目のアメリカ・ツアーでも、あいかわらず熱狂したファンが爆竹やビンを投げ、警備陣がそれを力で抑える場面が繰り返されたが、新曲やアコースティック・セットは歓迎され、総立ちの喝采でステージを締め括ることができた。

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