プランのご案内
  • NOTES

    UP

    ドラム・セット誕生と発展の歴史【前編】

    • Text:Cozy Miura

    ジャズの隆盛と共に
    100年以上に渡る歳月をかけて進化してきた
    ドラムの歴史を紐解く

    100年以上前に誕生したと言われるドラム・セットはどのような過程を経て、現在の形となっていったのだろう? ここではその誕生前夜から、ジャズの隆盛と共に進化し、1つの完成形を迎えるに至った60年代までの流れを辿りながらドラム・セット発展の歴史に迫ってみたい。

    DRUM SET HISTORY〜前編〜

    1. ドラム・セットの誕生前夜
    2. 初期のドラム・セット〜キック・ペダルの発展〜
    3. ロー・ソック・シンバルからハイハットへ
    4. トラップ・ドラム、コンソール・ドラムへの発展
    5. スウィング時代におけるドラムの進化
    6. スタイルの多様化とサイズ仕様の変化
    7. ポップ/ロックンロールからロックの世代へ

    1. ドラム・セットの誕生前夜

    ドラム・セットの誕生は19世紀末にアメリカ、ルイジアナ州ニューオーリンズでD.D.チャンドラーというドラマーが足でバス・ドラムを演奏できるように木製のペダル(のようなもの)を考案したことに始まる。

    それ以前はスネアとバス・ドラム(または合わせシンバルなど)はそれぞれの奏者が独立して演奏していたのだが、ペダルの発明によりそれまで2人でプレイしていたスネアとバス・ドラムを、1人のプレイヤーが同時にプレイすることが可能になったため、話題となり急速に広まっていった。

    ▲ドラム・セットの歴史を紹介しているヴィック・ファースの公式映像。
    2:13〜頃から、1人でスネア・ドラムとバス・ドラムを同時に演奏するようになった当時のスタイルを実演している。

    ジョン・ロビショー楽団を始めとする、当時のニューオーリンズの劇場のオーケストラのドラマー達の多くがいち早くこの方法を取り入れたそうだが、その裏にはそれまで2人でプレイしていたものが1人でできるようになったことで人件費が削減できるという意味合いもあったようだ。

    ニューオーリンズでは南北戦争(1861〜1865)で敗戦した南軍が軍楽隊の備品だった管楽器や太鼓などを格安で放出したことにより、貧しかった黒人達が楽器を安価で手に入れられるようになり、街のあちこちでブラス・バンドが結成された。やがて、彼らはお祭りや結婚式や葬式などで演奏し、町中を練り歩いたというが、それがやがてジャズの誕生へとつながることとなった。

    古くからの港町ニューオーリンズは“人種のるつぼ”であり、ヨーロッパ諸国やカリブ海の島々からの移民達、奴隷として連れてこられたアフリカ人達、そして原住民だったマルディグラ・インディアンなどの異文化が混じり合っていたが、そんな街でブルースラグタイムマーチといった音楽が融合してジャズ(オールド・タイム)が生まれたのだ。ドラム・セットの原点はニューオーリンズという街の特殊性にあったとも言えよう。

    2. 初期のドラム・セット〜キック・ペダルの発展〜

    19世紀末に考案されたバス・ドラム用のペダル(その多くは木製でハンドメイドだった)は、多くのドラマー達に受け入れられ、20世紀に入りさまざまな考案がなされるようになった。その中の1つがカカトでコントロールするタイプのペダル(フリスコ・ペダルと呼ばれる)で、フット・プレートとビーターが2つついたツイン・ペダルの元祖のようなものもあった。

    ▲こちらの映像では、ペダルの成り立ちの解説と共に
    ラディック社が当時発売した初期のフット・ペダルが紹介されている。

    最終的に現在のペダルの原型と言えるものが登場したのは1909年にアメリカのラディック社が特許を取得した“The Original Ludwig Pedal”で、ビーターのシャフトにはバス・ドラムのリムに取りつけたシンバルもプレイできるように、小さなシンバル用のビーター(金属製)も取りつけられている。小さく折り畳むことができるこのペダルは機能だけではなく、機動性も兼ね備えていたことから、当時のドラマー達にもてはやされ、ラディック社は大きな発展を遂げたという。

    この時代、バス・ドラムの上部には小さなシンバルやウッド・ブロックなども取りつけられるようになり、ドラマーの表現の幅が徐々に広がりを見せるようになっていった。

    初期のジャズはニューオーリンズ・ジャズデキシーランド・ジャズと呼ばれ、1917年にニューヨークに進出し、初めてジャズのレコードを録音したとされているオリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド(白人のバンドでドラムはトニー・スバーバロ/1897〜1969)や、1923年にシカゴに移り、キング・オリヴァー楽団での活動後に自己のバンド“Hot 5”(黒人のバンドでドラムは“元祖ジャズ・ドラマー”と称されるウォーレン“ベイビー”ドッズ/1898〜 1959)などがその代表格とされている。

    ニューオーリンズのミュージシャン達がニューヨークやシカゴに進出することになったきっかけは、ニューオーリンズの歓楽街として栄えていた“ストーリーヴィル”(ミュージシャン達の仕事場でもあった)が1917年に閉鎖されたことが主な要因と言えるが、それが結果的にはドラム(奏法も含め)というものをアメリカ各地に普及させることとなったのだ。

    ▲1922年のカタログに掲載されたペダルのイラスト。ビーターのシャフトにシンバルを鳴らすための小さなビーターが取りつけられている。
    ▲同じく1922年のラディックのカタログに掲載されているドラマーのイラスト。バス・ドラムには小さなシンバルが取りつけられ、上方にはやや大きめのシンバルとウッド・ブロックが取りつけられている。

    3. ロー・ソック・シンバルからハイハットへ

    ジャズ・ドラマーの元祖として知られているニューオーリンズ出身のドラマー=ウォーレン“ベイビー”ドッズが、ミシシッピー河を往復する蒸気船(リヴァー・ボート)で演奏していたときに、左足で拍子を取りながらプレイをしていたのを見た人のアイディアから生まれたものが、現在のハイハットの原型となったロー・ソック・シンバル(Low Sock Cymbal)だ。

    ▲こちらの映像では、当時のロー・ソック・シンバルを実際に踏んで音を鳴らす様子も見られる。

    その原型は蝶番でカカトを連結した木製のサンダルのようなものに直接小さなシンバルを取りつけた簡素なものだったが、1920年頃には金属製のスタンド(Low-Boyなどと呼ばれる)が開発され、さらにはそれをもっと高い位置(スティックを持った手で演奏できるくらいの)で演奏できるスタンド“ハイハット”(“Low-Sock”に対する“High-Hat”)が登場した。これにより足と手を併用したプレイが可能となり、ドラマーはより表現力を増すことになった。

    ハイハット・スタンドが考案されたことにより、小さなシンバルしか取りつけることができずに表現力に限りのあったロー・ソック・シンバルは姿を消すことになったが、この時点でようやく現在で言うところのバス・ドラム、スネア、ハイハットという“3点の概念”が出来上がることとなったのだ。

    また、演奏の多様化に伴い、小さな音量でソフトに演奏するためにワイヤー・ブラシ(もともとは柔らかいビニール製のハエ叩きを使ってプレイしていたという)も考案され、ドラミングの幅がさらに広がりを見せるようになった。ワイヤー・ブラシや手足を併用したハイハットの奏法を確立したのは、初期のカウント・ベイシー楽団に在籍していた“パパ”ジョー・ジョーンズ(1911〜1985)だと言われている。

    ▲1920年後期あたりのラディック社のカタログより。これを見ればハイハット・スタンドの発展の過程が見て取れる。