NOTES
4.
19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカは、ヨーロッパ、ラテン系、アジア系などさまざまな国からの移民が移り住み、それぞれの文化(衣食住だけではなく、音楽のスタイルや楽器なども含む)を持ち込んだ。
初期のドラム・セットによく見られる小さなタムタムやシンバル(ドラも含め)は中国、木魚のようなテンプル・ブロックは韓国から持ち込まれたようだが、やがてドラマー達は表現の多彩さを求め、いろいろな小物楽器をドラムに組み込むようになった。バス・ドラムの上に木魚やタム、カウベルなどを並べ、それを効率よくセットするために“トラップ・スタンド”なるものが考案される。
やがて現在のタム・ホルダー(レール・マウント方式)の原型となるような、バス・ドラムの周りに金属製のパイプを巡らせたものや、ドラム・セットを組んだままで移動可能にしたコンソール・ドラム(ラックの元祖とも言える)などが開発され、楽器の集合体ともいうべきドラム・セットは大型化し、さらに多彩になっていった。
1920年代後期頃は初期スウィング・ジャズの流行期で、ニューヨークの有名なナイト・クラブ“Cotton Club”ではデューク・エリントン楽団やキャブ・キャロウェイなどが人気を博したが、客はすべて上流階級の白人で、クラブの従業員(ミュージシャンも含め)はみな黒人だったという。
当時はまだドラマーの地位は低く、デューク・エリントン楽団のドラマーだったソニー・グリア(1895〜1982)は曲芸のようにスティックをくるくる回したり、投げたりしながら演奏する“フライ・ドラミング”の名手だったが、音楽的に正当な評価を受けることは少なかったという。
ちなみにこの“フライ・ドラミング”は1950年代から60年代にかけてカウント・ベイシー楽団で活躍したソニー・ペイン(1926〜1979)に受け継がれ、やがてロック世代のドラマー達にも大きな影響を与えることとなった。
5.
スウィング・ジャズはクラリネット奏者、ベニー・グッドマンが1934年に自己の楽団を結成し、全米放送のラジオ番組『Let’s Dance』に出演したことで人気を博した。当時のアメリカは不況時代だったそうだが、暗い世相の中で明るいダンス音楽は広く大衆に受け入れられ、トミー・ドーシー楽団やグレン・ミラー楽団も後に続いた。
スウィングの時代はベニー・グッドマン楽団が1938年にクラシックの殿堂として知られていたニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを開いた頃が全盛期と言え、多くのスター・プレイヤー達を生み出した。
中でも派手なアクションを交えたドラム・ソロで一躍人気ドラマーとなったジーン・クルーパ(1909〜1973年)や子供の頃から天才ドラマーとして活躍し、驚異的なテクニックで聴衆を魅了したバディ・リッチ(1917〜1987)が有名だが、彼らは、それまで“ドラムがなくても音楽は演奏できる”という理由から、“音楽の添えもの”という扱いを受けてきたドラムというものを音楽の中心として認知させるきっかけとなったのだ。彼らの活躍によりドラマーの地位も向上したわけである。
スウィング時代のドラム・セットは多少大きめと言える24″のバス・ドラムを中心にして、小ぶりなスプラッシュ・シンバルも複数枚使用している場合が多い。これはトルコからアメリカに移住していたジルジャン一族のアヴェディス3世が1929年にアメリカ国内でシンバルの製造を始めたことで、シンバルのバリエーションも豊富になったことも大きいだろう。
また、この頃にはトラップ・ドラムの時代とは違い、チャイニーズ・タムやテンプル・ブロックなどは姿を消し、バス・ドラム、スネア、タムとフロア・タムという現在のドラム・セットに近い構成となっている。
1950年代にはジーン・クルーパとスリンガーランド社がドラム普及のために開催していた、全米の若きドラマーを対象にしたコンテストでの優勝経験を持つルイ・ベルソン(1924〜2009/ジーン・クルーパ退団後のベニー・グッドマン楽団に参加した後、トミー・ドーシー楽団やハリー・ジェイムス楽団などを経て50年代にはデューク・エリントン楽団に参加)が世界初のツーバス・キットを考案して、ドラムの可能性をさらに広げ、ジョン・ハイズマンやジンジャー・ベイカー、カーマイン・アピス、コージー・パウエルといった60〜70年代にかけて活躍するロック・ドラマー達にも大きな影響をおよぼすこととなった。