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    Studio Great〜Vol.1 山木秀夫〜

    • Interview & Text:Seiji Murata Photo:Taichi Nishimaki

    当時流行ってた“ 絨毯クラブ”で
    リズムに合わせて坂本スミ子さんが
    ダンス指導をする、そのドラムを
    叩かせてもらって
    “ダンスのためのグルーヴ”ってものを
    教えてもらったような気がする

    リニューアルしたドラム・マガジン2020年7月号から新たにスタートした新企画=“Studio Great”。世代を超えて多くのリスナーの記憶に刻まれる数々の楽曲に名演を残してきた演奏家に迫るという連載だ。その記念すべき第1回目は、70年代後期からバンド活動と並行して膨大な楽曲の録音に参加し、現在もポップスから先鋭的な即興演奏まで、あらゆるジャンルを超越し、第一線で活躍し続ける山木秀夫の登場。ここでは2万字を超える超ロング・インタビューの中から、ドラムを始めた幼少期〜実践で鍛えられた10代当時の濃厚過ぎるエピソードを公開! 

    ビートルズのコピー・バンドから
    ディスコのハコバン、そして本場沖縄へ

    ●まずは、幼少期の音楽体験から聞かせてください。

    山木 最初は幼稚園の頃に、父親が音楽好きでよくコンサートに連れて行ってくれたのね。覚えているのは、たぶんジョージ川口さんの“ビッグ4”じゃなかったかな。そういうコンサートを観てドラムがピンとキたみたい。やっぱりカッコ良かったんだろうね。一番音圧があるし、心に刺さったんだと思う。しかもジョージ川口さんだから、パフォーマンスも派手でしょ。帰り道に楽器屋の前で「ドラム買って!」って言ったそのシーンはよく覚えてる。それに、うちにレコードがたくさんあって、電蓄(電気蓄音機)でタンゴもよく聴いてた。親父がちょっとしたパーティーというか宴会をやるときなんか、母親を駆り出して音楽をかけながら踊ったり(笑)。

    ●日常的に音楽に囲まれていたんですね。

    山木 そうだね。小学校低学年の頃は『9500万人のポピュラーリクエスト』っていうランキング形式のラジオ番組で、ナンシー・シナトラとかガス・バッカスとか、当時のヒット曲をよく聴いてたし、毎週日曜日の昼は『ロッテ歌のアルバム』っていうテレビ番組もよく観てた。オープニングがドラム・ソロから始まるんだけど、またそれがカッコ良くてね。小さい頃は、そういう音楽に合わせて椅子の上にマンガ本を置いてリズムを叩いたりしてた。で、物心がついた頃には、親父が買ってきたサンディ・ネルソンっていうドラマーのアルバムなんかもよく聴いてた。やっぱり子供の頃だから、ビートの利いた音楽が好きだったんだろうね。

    ●本格的にドラムをやり始めたのは?

    山木 スプートニクスとかベンチャーズとか、“バンド”が出てきたときかな。中でもベンチャーズでしょ。近所にもドラムを叩くお兄さんがいきなり増えて(笑)、僕も「聴かせて」って、家に入れてもらって、よくドラムの真横で座って聴いてたよ。小学校高学年の頃は、自分でもジーン・クルーパなんかは聴いていて、ちょっとしたスネア・ソロみたいなことができたのね。で、お兄さんに「叩いてごらん」って言われて叩いたらびっくりしちゃって、すごく褒められたの。そこから図に乗ったわけ(笑)。

    ●「買って、買って!」とせがんでいたドラムは買ってもらえたんですか?

    山木 それがなかなか買ってくれなくて。でも友達のお兄さんが持ってて、彼のバンドを聴きに行ってるうちに叩かせてもらうようになったり、キットを借りて家で叩いたりもしてた。ただタムとキックのヘッドが本皮で、“ダカダカ・ダカダカ・ドコドコ・ドコドコ”って練習してると、途中でヘッドが破けてズボッ!ってスティックが入っちゃうわけ(笑)。ヘッドを張り直したいって親父に言うたびに怒られてね。結局、中学に上がると同時にドラム・キットを買ってもらったんだけど、当時は“ムラヤマ”とか“クルーパドラム”とかいろいろある中、僕の人生初キットは中古屋で買ってもらった“Yan”(笑)。スネアもシンバルも全部ついてたけど、ハイハットなんて薄いから、ペダルを踏むと真ん中がベコン!!って凹んじゃって(笑)。

    ●(笑)。中学ではバンドを組んだりしたんですか?

    山木 中学に入ってすぐにバンドを組んでビートルズのコピーをやってた。「This Boy」とかね。そのバンドを1年くらいやってちょうど2年生になる頃に、今度は日本のグループ・サウンズが流行り始めて、テンプターズとかブルー・コメッツとか、寺内タケシさんのブルージーンズとか、GSのコピー・バンドを始めたの。それで町のコンテストに出て優勝したりして、調子に乗って「街中(まちなか)にあるディスコでバンドやろうよ」ってことになるわけ。「俺達雇ってもらえるかな?」なんて言いながら、坊主頭の学校だったから、みんなでカツラかぶってディスコのバンド・オーディションを受けたら受かって(笑)、高校1年の頃は、土日はディスコで演奏してた。そこは、あと2つバンドがいて、1つはゾンビーズとかちょっとユルいバンドのカヴァーをしていたけど、もう1つは東京でも活動していた本格的なバンドで、アレサ・フランクリンとかJB’sとかいろんなコピーをやってて、ドラマーの人もすごく上手だった。で、僕は当時もう1つ、中学のバンド仲間のお兄さんがやってるバンドから誘われて、市内の当時流行ってた“絨毯クラブ”で演奏してたの。最初はカツラかぶって(笑)。そこはいわゆるナイト・クラブで、お客もホステスさんもみんな裸足(笑)。で、その店はホステスさんの踊りが良くないっていうんで、わざわざ月に1回、東京から坂本スミ子さんっていうシンガーとパーカッションの人を呼んで、ドラムとパーカッションのリズムに合わせて坂本スミ子さんが踊りながら指導してたのね。そのドラムを叩かせてもらって、“ダンスのためのグルーヴ”っていうものを教えてもらったような気がする。だからすごく勉強になったよ。

    ●その店でドラムの研鑽を積んでいったんですか?

    山木 いや、そうこうしているうちに、沖縄で活動してるバンドの目に留まって、そのバンドのドラマーが辞めるタイミングで「君、沖縄に行く気はないか?」って誘われて、もう二つ返事で「はい、行きます、行きます!」って行くことに決めて(笑)。当時はまだ日本に返還される前だからアメリカ領で、パスポートも必要だし、まだ16歳だから、向こうでの身元引き受け人も必要だった。

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