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    ジョン・ボーナム[レッド・ツェッペリン] パーフェクト・バイオグラフィ Vol.03

    • Text:Satoshi Kishida
    • Photo:Michael Putland /Getty Images

    死後40年以上経った現在も世界中の演奏家に影響を与え続けるレッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム。彼の功績を語り継ぐべく、その命日(9月25日)からスタートした、2003年6・7月号掲載の“パーフェクト・バイオグラフィ”の転載企画Vol.03ではデビューから成功を掴むまでの濃密な2年間を辿る。

    出会い~成功への階段~

    1968年6月にヤードバーズはキース・レルフとジム・マッカーティが脱退し、少ししてクリス・ドレヤも抜けて解散状態となったが、最後に残ったジミー・ペイジがバンド名を引き継ぐことになり、新しいメンバーを集めてバンドを作り直そうと考えた。これが初めはニュー・ヤードバーズと名乗っていたバンド、レッド・ツェッペリンである。ジミーは最初、ヴォーカリストとしてテリー・リードに声をかけたが断られ、代わりにプラントを紹介された。プラントと話をして意気投合した彼は、次にドラマー選びに移り、元プロコル・ハルムのBJウィルソンを候補にと考えていた。だがプラントが強く推すドラマーがいるとのことで、ボーナムを見にわざわざクラブまでやって来たのだった。ジョンのプレイはいっぺんでジミーを魅了した。一方ジョンは、すでにそれなりの収入を稼いでいたので、新しいバンドに加わることに最初は難色を示したが、やがてこのバンドに可能性を見て承諾した。4人目のジョン・ポール・ジョーンズは、中西部の田舎者2人とは違って、すでにローリング・ストーンズのアレンジを手がけるキャリアあるセッションマンだった。ジミーとも知り合いで、ジミーの新バンドの話を聞きつけ、プラント加入以前からジミーに参加を申し出ていた。こうして4人のメンバーが決まった。

    次はいよいよ一緒に音を出す段だ。場所はロンドンのチャイナ・タウンにある小さな地下スタジオ。ジミーが「トレイン・ケプト・ア・ローリン」のリフを弾き始め、3人がそれに合わせた。そのとき何かが始まった。それは彼ら自身にも驚異としか言えないもので、演奏を終えたときには確かな手応えに変わっていた。ニュー・ヤードバーズは成立事情から、すでにツアーの日程が決まっており、4人はリハーサルもそこそこに、68年9月7~24日の日程でデンマーク、ノルウェイ、スウェーデンを回るツアーに出る。ツアーから戻ると、もう自分達にヤードバーズの名は不要であることを4人とも実感していた。演奏がその名前を越えていたのだ。同年10月末のイギリス国内のクラブ・サーキットから、彼らはバンド名をキース・ムーンの発案とされるレッド・ツェッペリンとあらためた。

    同時期(10月の2週間)、4人はロンドン郊外のパーンズにあるオリンピック・スタジオでファースト・アルバムのレコーディングに入り、すべての作業を30時間で仕上げた。曲はすでにライヴ演奏を通じてアレンジの細部まで出来上がっていたのだ。このテープを持ってマネージャーのピーター・グラントは、早速NYのアトランティック・レコードに飛び、契約を取りつける。アルバム『Led Zeppelin』は69年1月12日、まずアメリカで発売され(イギリス発売は同年3月末)、長期間かけてチャートの最高10位まで上った。ラジオのオンエアもプレスの記事も、彼らを取り上げることはほとんどない状況の中、ライヴで度肝を抜かれたファンが少しずつ増えていった。68年12月26日に始まった最初のアメリカ・ツアーでは、69年1月9~12日のサンフランシスコ、フィルモア・ウエスト4公演が有名で、それまでで最長の演奏時間と熱狂を呼び起こした。だが自国イギリスではBBCラジオヘの出演(同年3月)もあったが、メディアもライヴ場のオーディエンスも反応は鈍かった。対して4月からの2回目のアメリカ・ツアー27公演は、全席ほぼ完売状態となっていた。6月、初めてイギリス国内での本格的なツアーが組まれ、国内での人気も徐々に上昇し始める。ラジオ番組“BBCセッション”への出演3回も彼らの評価を高めた。同月、早くもセカンド・アルバムの制作に着手し、ツアー・スケジュールの合間を縫って段階的に制作された。ロンドン/ウィルズデンのモーガン・スタジオでリズム録り、ヴォーカルとミキシングはニューヨークで、といったふうだ。作風はファーストよりもさらに荒々しく、ライヴ・ステージの雰囲気をそのままスタジオに持ち込んだものだった。

    69年10月22日、『Led Zeppelin Ⅱ』を発売。予約だけで50万枚に達し、ビートルズの『アビイ・ロード』を抜いてビルボード1位に躍り出た。70年1月9日、ジミーの誕生目でもあった日のロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールでのステージは、映画撮りされたが映像の不調でお蔵入りになったという理由以上に、その凄まじいパフォーマンスによって伝説となった。ボーナムの15分に渡るドラム・ソロは、観客を完全にノックアウトした。英米共に、ツェッペリンが頂点に手をかけた瞬問だった。

    ※この原稿はリズム&ドラム・マガジン2003年6月号に掲載された記事を転載したものです。

    パーフェクト・バイオグラフィ Vol.01Vol.02