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【Archive Interview】ジム・ケルトナー
- Photo:WireImage/Getty Images
- Interview:Akira Sakamoto
リヴォンがスタジオで演奏する様子を観て
僕の人生は変わってしまったんだ
本日4月27日はアメリカが誇るトップ・セッション・ドラマー、ジム・ケルトナーの誕生日。偉大なるドラマーの生誕を記念し、2014年に実現した独占インタビューの一部を公開! そのキャリアのきっかけを語った貴重な内容です。
●セッション活動を始めたきっかけについてお話いただけますか?
ジム 最初はバル・ミツヴァ(註:ユダヤ教の成人式、日本の元服に相当する)なんかで演奏して、10~15ドルくらいずつ稼いでいた。僕はかなり若いときに結婚して、家族を養う必要があったからね。ワイフも歯科助手の仕事をしていた。
今のアメリカでは、19や20で結婚して、大した収入もなしにささやかな家庭を築くなんていうのは不可能だけれど、当時は何とかやっていけたし、僕はタダで演奏することも多かった。自分のやりたい音楽をやっていたし、自分よりもうまいミュージシャン達と演奏したかったからね。で、ある日デモ録音の仕事の話が来た。当時は大きな仕事で、それを6、7ヵ月ぐらいやった後、ゲイリー・ルイスのバンドに参加することになった。
その後レオン・ラッセルと出会い、彼がプロデュースしたゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの「She’s Just My Style」の録音に参加したんだ。自分が参加した最初のヒット・レコードで、当時23歳だった僕は、愛車コルヴェットで「She’s Just My Style」を大音量で鳴らしながら、ハリウッドの通りを走ったね。まるでハリウッドが自分のものになったような気分だった(笑)。
●最高の気分だったでしょうね。
ジム ああ、でも、調子に乗った僕はバカをやって、バンドをクビになってしまったんだ。その後はハンガリー人の素晴らしいジャズ・ギタリスト、ガボール・ザボと共演するようになった。今でも、彼との共演は最高の思い出の1つだよ。天才的なベース・プレイヤーで親友でもあった、アルバート・スティンソンも一緒だったしね。ガボール・ザボとはレコードも一緒に作ったし、同じ頃にはカル・ジェイダーのレコードにも参加した。デラニーが彼のバンドに誘ってくれたのは、その後のことだった。ところで、この頃のことについては、面白い話があるんだ。
●何でしょうか?
ジム 僕と同じタルサ出身で、ジミー・カースティーン(Jimmy Karstein)というドラマーがいる。彼もイニシャルはJ.K.だよね。
●ええ。
ジム カースティーンはもともとJ.J.ケイルのドラマーで、良いフィールを出したければ参考にしろと言われたドラマーの1人だった。僕も彼の影響を受けている。その彼が、ゲイリー・ルイスのバンドをクビになった僕に代わって、バンドに入ったんだ。ところが、当時の彼は僕と見た目がそっくりで、イニシャルも同じだったから、当時のティーン・マガジンが混乱してね。僕がクビになったあとも、雑誌に載ったジミー・カースティーンの写真に「ジミー・ケルトナー」っていうキャプションがついていたんだ(笑)。
その何年かあと、僕はデラニー&ボニーに入ったけれど、このバンドの最初のドラマーがカースティーンだった。デラニーは彼に、クレイジーなほど大がかりなドラム・セットを叩かせようとしたけれど、シンプルなセットを好んでいた彼はそれを拒んで、結局バンドを辞めることになって、代わりに僕が誘われた。つまり、カースティーンは僕に代わってゲイリー・ルイスのバンドに入り、僕は彼に代わってデラニー&ボニーに入ったというわけ(笑)。カースティーンとは今でも仲良しで、電話でよく話をするんだけれどね。
●それは面白い話ですね!
ジム デラニー&ボニーのあと、僕はジョー・コッカーの『Mad Dogs & Englishmen』に参加した。これは大編成のバンドで、ジム・ゴードンとも一緒に演奏したよ。デレク&ザ・ドミノスにジムとカール・レイドルが参加したのはこのあとのことで、僕の方はデイヴ・メイソンのアルバム(『Alone Together』)に参加した。僕がレコードの録音だけでやっていきたいと本気で思ったのは、このときのことだった。演奏してプレイバックを聴くことが、僕にとって最高の楽しみだったからね。それから録音の仕事が次々と舞い込むようになったんだ。
ジョージ・ハリスンのバングラディシュ救済コンサートも大きな仕事だった。リンゴ・スターとはそれより少し前に、ジョージが彼のために書いた「It Don’t Come Easy」の録音でマラカスを演奏したときに会っていた。リンゴともすぐに仲良くなって、今でも一番の親友の1人だよ。そして、ジョン・レノンの『Imagine』で「Jealous Guy」と「I Don’t Wanna Be A Soldier」の録音に参加したのが頂点だった。まるで夢のようだったね。
このあたりは順番をよく覚えていないけれど、レオン・ラッセルから電話があって、カール・レイドルやジェシー・エド・デイヴィスとボブ・ディランの「Watching The River Flow」や「When I Paint My Masterpiece」に参加したのも、同じ頃だったと思う。ボブに会ったのはそのときが最初だった。ジョージとはゲイリー・ライトの『Footprint』でも一緒だったね。この頃の出会いが、後年のロイ・オービソンやトム・ペティ、ジェフ・リン、ジョージ、ボブとのトラヴェリング・ウィルベリーズにもつながったんだ。
●あなたの演奏は、『Accept No Substitute』の頃までは音数も多くて、ジャズの影響も強かったと思いますが、その後よりシンプルなスタイルに変わったのはなぜですか?
ジム 理由は簡単だよ。リヴォン・ヘルムと出会ったからさ。ある晩、彼の録音現場に見学に行って、スタジオでそのまま2日間過ごしたことがあってね。彼がスタジオで演奏する様子を観て、僕の人生はまったく変わってしまったんだ。もう派手な演奏は止めた、テクニカルなことや過剰な表現はやりたくないと思った。そして、音楽的な会話をごくシンプルなものにしたんだ。リヴォンほどそれをうまくやったドラマーはいなかった。ザ・バンドのあらゆるレコードで聴かれるドラミングは天才的だ。
リック・ダンコやリチャード・マニュエル、ロビー・ロバートソン、ガース・ハドソンといった、他のプレイヤー達についても同じことが言える。彼らは信じられないほど素晴らしいミュージシャンで、リヴォンはただ、彼らの心に灯をともす。それだけでもう、彼らの演奏に花が咲くんだ。彼らは永遠に残る音楽を生み出した。それで僕は、できる限りシンプルで効果的なことだけをやろうと思った。同じことを目指している人はたくさんいる。アンディ・ニューマークもいつもそう言っているよ。
僕は常に今言った通りの演奏をしてきたわけじゃなくて、レコードによっては音数の多い演奏もしているけれど、基本的には無理してヴィニー・カリウタみたいな演奏をしないようにしているんだ。ヴィニーは大親友の1人だし、ジェフリー(ジェフ・ポーカロ)ともよく一緒にヴィニーのライヴを観に行ったけれどね。その後は他にもすごいドラマーが出てきた。
ヴァージル・ドナティも大好きで、話しているときにはごく普通なのに、いざ演奏を始めるとフェラーリのエンジンみたいだ(笑)。何をどうやっているのかまったくわからない。そういうドラマーがたくさんいる。トーマス・ラングも素晴らしいよね。彼らとも仲良しで、僕はいつも彼らを励ましている。シルク・ド・ソレイユのドラム版みたいだって言っているけれどね。僕は彼らのように並外れた能力を持ったドラマーの演奏を楽しみながら、自分のやり方を楽しむこともできる。自分自身でいられることに幸せを感じることが大切なんだ。自分には個性があって、表現することがあるというのを理解しなきゃならないんだ。