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Archive Interview −アル・フォスター −

  • Interview:Kayoko Takahashi

マイルス・デイヴィスが厚い信頼を寄せ、ソニー・ロリンズ、マッコイ・タイナー、ジョー・ヘンダーソンらジャズの歴史にその名を残すプレイヤー達と共演してきたベテラン・ドラマー、アル・フォスター。昨日1月18日は彼の78回目の生誕記念日ということで、1988年に掲載したアーカイヴ・インタビューを公開自身のルーツ、キャリアについて語った貴重な内容だ!!

マイルス・デイヴィスから話がきて 自分のことをまんざらでもないかなって思い始めたんだ

●あなたの経歴が意外に知られていないので、まずドラムを始めた頃のことを話してください。

アル 最初からっていうと、4歳くらいのときの鍋やフライパンからだな。9歳のときに父にグレッチのドラム・セットを買ってもらったが、そのときは半年くらいで飽きてしまった。ところが13歳になってマックス・ローチを聴いて、再びドラムに目覚めたんだ。初めて聴いたのがクリフォード・ブラウンの『チェロキー』だった。あのマックス・ローチのソロにすっかり惹かれてしまって、学校から飛んで帰って練習する日が続いた。14歳の頃にはソニー・ロリンズが僕のアイドルになった。そのときにはもうドラムだけじゃなく、曲のメロディ・チェンジ、ソロなど全体が聴き取れるようになっていた。ドラムの正式な教育は受けなかったが、NYに住んでいた強みで、数多くの優れたミュージシャンの演奏を聴いたり、会ったりできた。もちろんマックスやアート・ブレイキーも観に行ったよ。それから17〜18でイリノイ・ジャケーのバンドに入り、次がブルー・ミッチェルの仕事で、その頃になると僕の名前も少しずつ知られてきた。

●プロになろうと決心したのはいつ頃ですか?

アル そりゃ、マックスを聴いたときだ。あの頃の音楽はビバップとかハード・バップとか、譜面が読めなくても仕事ができるようなものばかりだっただろう。良い耳をしていれば、リハーサルなしですぐに叩けるほどだった。だから僕も音楽学校に行かなくてもプロになれたんだ。今の音楽ではとてもそんなやり方は通用しないから、若いドラマーには決してオススメしたくはないけどね。

●それ以前はなぜドラムに興味を持ったのですか?

アル 父がプロではなかったがベーシストで、家でよくバンドのリハーサルをしてたんだ。そういうのを見ると、子供ってたいていドラムに興味を示すものだろう。僕もそうだった。もっとも母が言うには、僕が生まれたとき、ちょうどラジオでベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」がかかってたせいじゃないかって……僕は覚えてないけど(笑)。

●初めてのレコーディングは誰と一緒でしたか?

アル ウィルバー・ウェア……もう亡くなったが良いベーシストだった。彼の紹介で、ソニー・ロリンズのギグに呼ばれたんだ。69年のことだ。6晩連続の予定で、火曜、水曜と2回やったら木曜日にソニーか電話で、別の人を使うからもういいよって(笑)。あれでその後しばらく、ドラムなんか叩く気にもなれなかった。

●今でこそ笑い話にもなりますが……。

アル だろう? それでも5年後にはまた電話をくれてね。5年前にクビにした理由は言わないんだよ。未だに教えてくれない。でも今は僕のことをお気に入りのドラマーだと言っているから。考えるにあのときの仕事では、トニー・ウィリアムスのライフタイムと一緒に出ていたんで、異常にあがってたんじゃないかな。トニーの目の前で、トニーのセットを使ってプレイしなければならなかったんだ。

●その後、どうやって立ち直りましたか?

アル 他の人達がセッションに呼んでくれたんで。その後、マイルス(デイヴィス)からも話がきて、自分のことをまんざらでもないかなって思い始めたんだ。何しろマイルスだからね。78年からフルタイムでソニーの仕事をするようになったんだ。このときはマッコイ・タイナー、ロン・カーターとソニーがいて、レコード会社はジャック・ディジョネットを考えていたのに、ソニーは僕がいいって言ったんだ。その後、81年にマイケルがカムバックしてそちらの仕事に移ったが、今はまたソニーと一緒だ。日本公演も、もう5回目になる。

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