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    【R.I.P.】日本を代表するドラマー、村上“ポンタ”秀一氏急逝

    • Photo:Eiji Kikuchi
    • Text:Rhythm & Drums Magazine

    日本を代表するドラマー、村上“ポンタ”秀一氏が去る3月9日に急逝したことがオフィシャル・サイトにて発表された。享年70歳。

    ポンタ氏は1951年1月1日生まれ。音楽の道へ入ったのは中学時代で、ブラス・バンドに入部し、フレンチ・ホルンを担当。中学3年生のときに、臨時講師として学校へ来た大阪フィルハーモニーの指揮者、朝比奈 隆氏に打楽器奏者としての才能を見出され、ティンパニを担当。その後、19歳のときにジャズ喫茶で聴いたエルヴィン・ジョーンズの演奏に感銘を受け、ドラマーを志し、大阪でバンド・ボーイ生活をスタート。

    他の奴と同じにはなりたくないという理由で、2年間スティックを一切持たず、イメージと呼吸法、アイディアを膨らませていたというのは有名な話で、スティックを持ってわずか1週間後に“赤い鳥”のオーディションを受けて、見事合格。1972年にプロ・デビューを果たし、『美しい星』、『祈り』、『書簡集』に参加。

    その後は赤い鳥の盟友、大村憲司らと五輪真弓のバック・バンドを経て、スタジオ・ミュージシャンとして、井上陽水、渡辺貞夫、深町 純、山下達郎、吉田美奈子、坂本龍一、矢野顕子、矢沢永吉、沢田研二、さだまさし、山下洋輔、忌野清志郎、泉谷しげる、EPO、角松敏生、氷室京介、尾崎 豊、DREAMS COME TRUEを始め、数えきれないほどのレコーディングやライヴに参加。レコーディングに参加した曲は1万以上とも言われ、数々の名盤にその名を刻んできた。

    ソロ活動にも精力的で、1983 年には初となるソロ・アルバム『PADANG RUMPUT』をリリース。93年にはリーダー・バンド、“PONTA BOX”を結成し、モントルー・ジャズ・フェスティバルにも出演。音楽活動の節目にはアニバーサリーを祝う作品を発表し、25周年には『Welcome To My Life』、30周年には『MYPLEASURE』、35周年には新バンド=7(seven)を結成し、『7(seven)』をリリース。またドラミングとインプロヴァイズした問題作『Rhythm Designer』、でも無尽蔵の創造力を証明。

    2016年には、吉田美奈子の『FLAPPER』、山下達郎の『SPACY』など、自身が70年代に参加した名盤の裏側をドラム越しに語った書籍『俺が叩いた』を上梓。2018年には続編として、80年代の名盤について語る『続・俺が叩いた』も発売。

    コロナ禍となった昨年は表立った活動はなかったものの、19年までは年間に200本近いライヴを行ないつつ、サウンド・プロデューサーとしても活躍。コロナが去ったあとの演奏活動が待ち望まれていただけに、今回の訃報は本当に残念でならない。

    本誌初表紙となったNo.9の誌面。

    本誌には創刊当時からご協力いただいており、表紙を飾った回数は1985年刊行のNo.9を皮切りに、歴代最多の18回(愛器が表紙を飾った97年6月号を含めると計19回!)。約5年に渡って連載されたコラム「場数王の箴言」も人気を博した。通巻300号の節目に行ったインタビューでは、「メディアが流行を追うのは当然のことだけど、若い子はもっと音楽を解釈する努力をするべきだと思う。俺自身も“原点に帰る”みたいなことを口では言うけど、本当にわかっているのか、常に自問自答しているからね」と語っていたのが印象的であった。

    なお葬儀・告別式は親族のみで執り行われ、後日お別れ会が予定されているという。

    心よりご冥福をお祈りいたします。