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YESのドラマーとして半世紀に渡って屋台骨を支え続けた名手、アラン・ホワイトが5月26日に死去したことが、バンドのオフィシャル・アカウントにてアナウンスされた。享年72歳。
アラン・ホワイトは1949年生まれ。初めてドラム・セットを手に入れたのは12歳の頃だったという。彼の名前が一躍有名になったのは、1969年のプラスティック・オノ・バンドへの抜擢だろう。本誌の表紙を飾った1988年の対面インタビューでは、プラスティック・オノ・バンドへの加入について次のように語っている。
「ある朝、突然ジョン・レノンから電話がかかってきたんだ。“こんにちは。ジョン・レノンだけど、明日、トロントでコンサートをやるから、一緒にきてドラムを叩いてくれないか?」って。僕はまだアマチュアに毛の生えた程度だったから、“朝からそういう冗談はよしてくれよ”、“いや、冗談じゃなくて、僕は昨日、キミのプレイを見て、とても感動したんだ。とにかく、キミのアパートまでリムジンをやるから、それで空港のVIPラウンジまで来てくれ。僕とエリック・クラプトンで待ってるから”というわけだよ。僕も半信半疑ながら、本当なら……って気持ちがあったから、次の日の朝を待ったんだ。その話は嘘でもなんでもなくて、空港には2人がいて、そのままトロントへ連れて行かれて、コンサートをやってしまった」。
その後も、ジョン・レノンの『イマジン』やジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』など歴史に残る傑作のレコーディングに参加し、さらにジョー・コッカー、エア・フォースらと共演。セッション・ドラマーとしてのキャリアを積み重ねる中、1972年に脱退したビル・ブルーフォードに代わってYESに加入。そのきっかけも一本の電話だったそうで、次のように振り返っている。
「ちょうど『危機』を制作中だったんだ。「イエスのレパートリーを3日間ですべてマスターしたというのは本当か?」ってよく聞かれるけど、実際3日間でマスターしたよ。当時僕は、プロデューサーのエディ・オフォードと一緒のアパートに住んでいたので、YESのことはエディからよく聞いていたんだ。複雑なリズム・セクションの入ったバンドに興味があったり、そういうバンドをやっている時期でもあったんだ。その他には、ジョー・コッカーのバンドもやっていて、そのときにYESのマネージャーから「YESに入らないか?」って電話があったんだ。(中略)でもその電話がかかってきたのは、3日後にそれこそ、10万人を前にして、というダラスのコンサートが控えているときだったんだ」。
バンド加入以降は、不動のドラマーとしてその屋台骨を支え続けた。並行してソロとして活動も展開し、1976 年にはソロ・アルバム『Ramshackled』も発表。2006年にはリーダー・バンド、Whiteとしても作品をリリースしている。
バンド加入50周年を迎え、9月には久しぶりとなる来日公演が決定。6月からはUKツアーも控えていたが、去る5月23日に体調不良によりUKツアーへの不参加がアナウンス。心配される中、その3日後の5月26日に急逝が発表された。
本誌が最後に対面取材を行ったのは、2012年の来日公演時。インタビューのラストに「あなたにとってドラムとは?」という質問をしたところ、「とても短い答えをしてあげよう。“僕の人生”だ」とニコリと笑って答えてくれたのが印象的であった。心よりご冥福をお祈りいたします。