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    TOKYO BACKBEAT TALK〜林 立夫✖️高橋幸宏〜

    • 取材・文:村田誠二/撮影:菊地英二

    1960年代から続く東京バックビート族対談

    1950年代、東京に生まれ、歳の離れた兄を持ち、私立校に通い、バックビートに魅了された林 立夫と高橋幸宏の2人。その出逢いから共に過ごした学生ライフ、バックビート音楽体験、ドラマーとしての共通点、そして現在の関係まで、気の置けない2人のリアルトークをご堪能あれ。

    兄世代の影響と違和感そしてロック中高大学生のリアルライフ

    ●そもそもお2人の出逢いのときのお話を聞かせていただけますか?

    高橋幸宏 もともと高校1年のときにブッダズ・ナルシィーシィーというバンドを作ったんですけど、兄貴(フィンガーズの高橋信之)たちが慶応の風林火山のトップだったとき、軽井沢の三笠ホテルで主催したパーティーに僕らのバンドも出演したら、バーンズ〔註1〕のトラ(代役)のベースとして来ていた細野(晴臣)さんに出逢って、そのあと東京に戻ってきてから、細野さんに林と(鈴木)茂と小原(礼)を紹介してもらったんです。それからはもう、お互いの家に遊びに行ったり、一緒に釣りに行ったり、岩倉家が経営してた岩原のスキーロッジに行ったり。

    林 立夫 岩原のロッジは、加山雄三さんの親戚が経営してたんだよね。

    幸宏 テキトーにバンドを組んで行くと泊まらせてくれて、飯も食わせてくれてね。

    ●本編にも、スキーもやりギターも弾き、ヨットにも乗る加山雄三さんのような万能さがヒーローだった時代で、林さんや幸宏さんより一世代上の、慶応を始めとする大学生たちから脈々と流れる文化があったという話が出てきます。

     当時は加山さんだけじゃなくて、スキーやったりカーレースやったり、そういう人が多かったよね。

    幸宏 〝若大将〞みたいに、あんなに正しい人じゃないけどね。要するに、僕らが小学生くらいの頃の慶応とか青山の大学生ってけっこう無茶苦茶で、親の金で遊んでいたんですよ。僕たちはそれをちょっと冷ややかに見ていた世代かな。僕らも実は親の金なんだけど(笑)。

     そうだね。僕らの世代は、親が少し下降気味だった世代で、少し上の世代に比べたら地味だったような気がする。

    幸宏  僕らが小学生くらいのときが高度経済成長期で、なおかつオリンピックもあってこれから日本がすごくなる!という時代だから、その勢いに乗って兄貴たちの世代は、ゆくゆくは親の会社を継ぐという大学生が多かった。うちの長男もけっこう無茶苦茶な人だったな。次男はフィンガーズをやっていたので、僕らとちょっと近い存在だったけど。

     僕らの周りって、ほとんどみんな次男、末っ子だよね。長男は〝長男〞な分、親が何でも(お金を)出すからもっと遊んでた。だから次男には回ってこなくてね。

    幸宏 長男の世代っていうと、石原慎太郎の小説『太陽の季節』の世界くらいのイメージだよね。

     太陽族!

    幸宏 そうそう。〝みゆき族〞になるとうちの兄貴たち(信之)の世代。ファッション的にアイビーで。VAN(ヴァン)とか。

     コッパン(コットンパンツ)穿いて紙袋持ってね。紙袋はマスト・アイテムだった。

    幸宏 紙袋にアイロンかけるんだよね。テイジンメンズショップが一番カッコ良くて、JUNとエドワーズは茶色だったから、ちょっとダサいな、みたいな。

    ●それがすぐ上のお兄さんの世代なわけですね?

     兄貴たちの世代がそのスタートじゃないかな。

    幸宏 そう、僕らはまだ中学生ですから。でも僕は、姉がだんだんプロになっていくから、ファッションに関してはその時代からモロ影響を受けてましたね。

     幸宏ってJUN派だった? VAN派だった?

    幸宏 VAN派。

    ●当時、お2人が中学〜高校の頃に遊びに行くというと、どこに行くんですか?

    幸宏 中学だとまだ大した場所には行かなかったですけど、高校になると、兄貴たちの世代の影響でアメリカに憧れてたんで、六本木だとハンバーガー・イン、原宿だとコープオリンピア、青山のユアーズとか、大学生になると(赤坂のディスコ)ムゲンとかビブロスとか。大学生の頃には、シトロエンの2CV(ドゥツェーヴォー)とかを兄貴たちの世代の人に借りて、よく一緒に遊びに行ってたよね。

     やっぱり兄貴の世代は派手だったんだよ。

    幸宏 僕らは(上の世代のように)ゴルフをやることに抵抗があったしね。

     相当抵抗があった。僕の宇宙にはないっていうくらい。

    幸宏 ホントにそう。まずウェアが嫌いだったし、また大学生のくせに(フォード)サンダーバードとかに乗ってて。

     なんか、センスに違和感を感じてた。

    幸宏 そういう違和感とロックが台頭してくる時期が重なってくるんだよね。だから兄貴たちの世代は、ロックでも僕らと微妙に違った。

     でも一応ロックのつもりだから、それで、でっかいバックルが付いてる白のゴルフパンツ穿いてたら終わりだよ。

    幸宏 ちょっとストレッチ入っちゃったりしてね。今のじゃなくて当時のストレッチ(笑)。簡単に言うと、今で言う反社会的勢力の方と変わらない格好をしてた。

    ●それはダサいですね(笑)。

    幸宏 とにかく長髪が似合わない格好でしたから。

     僕らも伸ばしたかったんだけど、学校がうるさかった。

    幸宏 だからギリギリで頑張る(笑)。パーマの掛け方もギリギリ。だいたい失敗して、雨の日に濡れた頭を見るとおばちゃんパーマみたいになってて(笑)。

    ●青学は厳しかったそうですが、幸宏さんの立教高校も厳しかったんですか?

    幸宏 週に何回かチャペルで朝の礼拝があるんですけど、入ってくる生徒の襟あしを先生がチェックしてるんですよ。だからいつも遅れて横から入って、見られないようにしてました。夏服のときなんて、ひどいときは先生に追いかけ回されてましたから。夏服は白のシャツにグレーのパンツなんですけど、僕はグレーのジーパン穿いて行ってましたから。

     ジーパンは絶対ダメじゃなかった?

    幸宏 絶対ダメ。でもグレーだったらわからないだろと思って……いや、だから追いかけ回されたよ(笑)。でも、逃げていれば済んじゃうところもあって、そういう意味では大らかな時代だったよね。立教高校は、池袋から電車に乗って最寄り駅からまたバスに乗るんだけど、池袋まで来て1時間目にはもう間に合わないとなると、遅れて入るのに入室許可証をもらわなきゃいけなくて、それが面倒くさい。だから1時間目は出ずに、ゆっくり歩いていって、学校の裏の寮の近くに僕らみんな〝裏ババア〞って呼んでた有名な中華屋があって、そこで朝からカツ丼とか食ってたもんね(笑)。

    ●(笑)。林さんの青学は自宅からすぐ近くでしたね。

     僕は学校まで5分だからね。予鈴が目覚ましで(笑)、そこからトーストくわえて家を出て、信号待ちでネクタイを締めながら行って間に合っちゃう。

    ●学校から近いと友達の溜まり場になりませんでしたか?

    幸宏 林の家はそうでもなかったよね。僕はよく行ってたけど。小原もよく林の家に行ってたよね。

     幸宏の家は広かったから溜まり場になってたよね。

    幸宏 高校2年くらいのときは、家に帰るといつもユーミンがいたし(笑)、林も大学くらいのときはウチにしょっちゅういたよね。

    ●当時はみんなで家に集まって音楽を聴いたり?

    幸宏 そうですね。同じ学校じゃなくて地元系だったら(ブッダズ・ナルシィーシィーを組んでいた東郷)昌和なんかと音楽聴いたり……。

    ●当時は、アメリカンスクールにも友達がいたそうですね。そのつながりも大きかったのではないでしょうか?

    幸宏 当時は横のつながりで、アメリカンスクールの友達が、軽井沢の連中も含めて多かったんですよ。ひとりセントメリーに行ってるやつがいて、だいたい僕らはアメリカンスクールのパーティーにバンドで呼ばれてたんです。一番多かったのは、林と最初に逢ったメソニックビル。

     東京タワーの下ね。

    幸宏 僕らもそこを高校生のときに借り切ってダンスパーティーをやってたけど、兄の信之の世代もダンパをしょっちゅうやってて、フィンガーズがまだアマチュアの頃よく出ていたんで、僕がトラでドラムを叩き始めたんですよ。

    ●アメリカンスクールに知り合いがいると、彼らがPXで仕入れたアメリカの最新音楽情報をいち早く知ることができたそうですね。

    幸宏 そうでもないですよ。こっちの方がすごいと思ってたところもあるし。

     いや、いい情報持ってるヤツがいたよ。クリームとかジミヘンとか、まだ日本に情報が入ってきてない頃に教えてもらったんだから。

    幸宏 そうだっけ? 林は1つ上だからだよ。僕はもうその頃、知ってたもん。高校1年のときにブッダズ・ナルシィーシィーでロック雑誌の取材を受けたときの切り抜きを昌和が持ってて、この間みんなで見たんだけど、言ってることが生意気だもん(笑)。

     1年違うだけでも、情報の入り方が相当違うわけだ。

    幸宏 違うんだよ。この頃の情報はかなり貴重だからね。

     で、どんな生意気なこと言ってたの?

    幸宏 昌和の家で取材を受けたんだけど、インタビュアーに「何か1曲演ってもらえますか?」って言われて、「じゃあヴァニラ・ファッジ〔註2〕の曲演ります」とかさ、「マザーズ・オブ・インベンションもやるね」とか「あとモビー・グレイプも好きだな。でもスライ&ザ・ファミリー・ストーン〔註3〕も……」とか言っちゃって(笑)。でも当時、実際そういう曲を演ってたからね。

     僕らも演ってた。みんな同じようなバンドが好きだったんだよね。

    幸宏 大学くらいになるとだいたい好みが一緒になってくるんだけど、高校の頃は、林はスタンダード・ジャズなんかもルーツにあったし、僕は僕で映画音楽がルーツにあったり、お互い好みが違ったから「あれ、良いよ」なんて薦め合ったりして。一度、無理やりフランシス・レイのコンサートに連れて行ったら、林は「全然興味ない」って言ってたのに、コンサート中、泣いてんの(笑)。号泣(笑)。

    ●そうなんですか(笑)!

     (笑)。これ、一生言われちゃうんだよな〜。

    幸宏 もっとおもしろい話がありますよ。あるコンサート会場の入り口で林と待ち合わせをしてたんだけど、当時モッズ系が流行ってて、林がトレンチ系の紺のモッズコートを着てたのね。ピンバッジとかいっぱい付けてたから僕はすぐわかったんだけど、襟元のボタンをきっちり留めてたからか、林が知らない人にチケットを渡されてて……チケットのもぎりの人に間違えられてた(笑)。

     もしくは会場警備員か(笑)。でも幸宏はよく覚えてるね。自分が着てたコートのことすら何となくしか覚えてないもん。

    幸宏 もう高校3年の頃からファッションの仕事を少しずつ始めてて、大学生のときにはBUZZSHOPの仕事を手伝ってたからね。そのときに林が着てたシャツがものすごく欲しくてさ。

     SASだよ。スカンジナビア・エアラインの。

    幸宏 そうだ。SASの乗務員の制服で、エポーレット(肩の位置に付くタブ状の布片)の付いているブルーのシャツ。

     しかもいいブルーだった。

    幸宏 それをダンガリーっぽく着ていたんだけど、ジーンズにすごく合ってた。しかもジーンズもこだわっててね。

     エドウィンじゃないんだよね。

    幸宏 前ポケットとか嫌だったもんね。で、「そのシャツ欲しいな」って言ったら手に入れてくれたんだよ。よく覚えてる。

    林 物がなかった時代だからこそ、1つ1つのものをよく覚えてるってこともあるんじゃないかな。今は何でも〝溢れてる〞から。

    幸宏 そう、工夫しなきゃいけなかった。当時ジェイムス・テイラーが着てたダンガリーシャツも、どこで買ったのか(小坂)忠さんしか持ってなくて、それはやっぱりアメリカに行かないと手に入らないんだ!ってことになると、僕らは横須賀まで行っていっぱい買い込んでくるわけ。それを友達に売ったりしてたもんね(笑)。

    林 よくダンガリー着てたよね。

    幸宏 やっぱり(映画の)『いちご白書』の影響だよね。

    林 すぐ影響されちゃうから。

    幸宏 僕らが高校・大学の頃は、やっぱり海外の音楽に憧れてたからオリジナルっていう発想はまだなかったけど、その頃、兄貴が必ず「幸宏、最近ってどういうのが流行ってんの?」って聞いてくるのね。で、僕が大学1年のときだったかな、ニール・ヤングの「ハーヴェスト」をギターで弾いて聴かせたら「ケンとメリー」〔註4〕ができたんだよ(笑)。

    ●信之さんが聞いてくるくらい、幸宏さんは海外の音楽情報を知っていたということですね。

    幸宏 そうでしたね。プロコル・ハルムもそうだし。笑えるのは、まだ大学1年の頃はバンドも組んでいなくて、スタジオの仕事はけっこうやっていたけどそれほど稼げるわけじゃないので、それで、さっき話した岩原スキーロッジにみんなで行ってバイトするわけですよ。でも、林と僕は2人ともドラムなのに、2人とも叩きたがらない(笑)。僕はもうギターがやりたくて。

     いや、幸宏はピアノ弾いてたよ。

    幸宏 それは(兄の)信さんだって。

     そうだった? 「ユア・ソング」だよ?

    幸宏 そうそう。だってあの人、最後まで弾けないのに顔がエルトン・ジョンに似てるからってピアノになったんだから。(爆笑)

     ちょっと顔が似てたんだよね(笑)。

    幸宏 かけてる眼鏡の形が同じだったし。で、ドラムは小原にやらせた(笑)。

     小原はドラム叩きたがるから。

    幸宏 僕らは「いざとなればやるけどさ」という。

     極端に言えば、ドラムは「誰か代わりにやってくれるならやって」という感じ。

    幸宏 そこで茂みたいなギタリストが出てきちゃうと……。

     急に静かになっちゃうんだよね(笑)。

    ●当時は、バンドの練習も誰かの家に集まってやることがあったそうですね。

    幸宏 僕は昌和のうちでやってましたね。

     だって、ものすごくデカい家だから。

    幸宏 僕もドラムセットが家に組めたんですよ。そのときは下の家から石投げられたりしてましたよ。ガラスが割れたこともあるし。

     うちは、僕が中学まで住んでいたところは大丈夫だった。隣が〝鉄砲山〞だからね。

    幸宏 兄貴のバンドで成毛滋さんのところに行くと、それこそ立派な練習ルームがあったもんね。僕はそのときまだ高校生だったけど、もうドラム一本になってた。それで、一時期「フィンガーズのメンバーに」って言われたとき、うちの母親がさすがに「大学に行って」って反対したから「じゃあ、ムサビ(武蔵野美術大学)行く!」って。実はムサビは小原に誘われたんだよ。

     え? そうなの?

    幸宏 小原に「そのまま立教行くの?」って言われたから、「音楽はやりたいんだけど、大学には行けって言われてるし、どうしようかなと思ってて……」って言ったら、「ムサビ行かない? 女の子、めちゃくちゃ多いよ」って(笑)。

    (爆笑)

    幸宏 で、小原に「まず短大に行って、3年から編入できる試験があるし。ここだったら絶対受かる」って言われて。僕もバカだから真に受けて、2人でデッサンの勉強なんかやり始めちゃって(笑)。その他の試験科目は、英語と小論文だったから、英語だけはやっておこうと思って図書館にも通ったりしてね。僕はどうせ落ちるだろうなとは思ってて、その頃には(サディスティック)ミカ・バンドに誘われてたし、もうガロのバックバンドをやってたから、落ちたら親に「やっぱりダメだった」って言おうと思ってたの。そうしたら小原は基礎デザイン科にちゃんと受かって、僕は補欠。でもそのまま入れちゃって、入学式にも2人で行ったよ。僕なんか白の麻のスーツなんか買っちゃって(笑)。

     その話、最高だね。僕はそのまま青山学院大学に行ったけど、3年間で授業に1回だけ出て、友達に「4年で卒業できるかな?」って言ったら、「その質問自体がバカだ」って言われて(笑)。それでもう辞めようと。

    幸宏 僕も2年過ぎたら行かなくなっちゃった。その頃、品川の教習所に通ってたんだけど、ラッキーなことに教習所が途中から調布に移ったから、(武蔵野美術大学があった)国分寺からの帰りに通えたの。ところが大学に行かなくなっちゃったら、仮免取ったあとに半年も空けちゃって。もう行かないとヤバいぞって、大学には行かずに、免許のためだけに調布に行ってた(笑)。

     当時は何乗ってたんだっけ?

    幸宏 一緒に釣りに行ったときのベージュのワーゲン、覚えてない?

     そうだ! 幸宏はけっこう釣りに連れて行ってくれたからね。ハゼ釣りとか。

    幸宏 そうそう。林はいつも格好だけは一人前でね(笑)。まったく必要ないのに、腰まである長靴履いてきちゃったりして。釣り場のおばちゃんに「あら、お兄ちゃん、立派なブーツ履いちゃって」なんて言われて(笑)。そのためにわざわざ〝スポーツトレイン〞で買ったんだけど、もう蒸れちゃって蒸れちゃって。そのとき幸宏はゴム草履だったもんね。なぜか釣りのことは今でもよく覚えてる。

    幸宏 僕も妙に覚えてるなぁ。2人で小坪に行ったときなんて、テトラポットのところで釣りしてたら、ウマヅラハギばっかりで、コマセ撒くとバーッと集まってくるから、林に「はい、撒いて!」って全部網ですくっちゃって(笑)。

     あれはもう、釣りじゃなくて〝漁〞だった(笑)。

    *註1 バーンズ:慶応義塾中等部時代から松本隆が同級生と組んでいたバンド、バーバリアンズが高校時代にバーンズに改名。慶応大学時代も継続し風林火山のイベントに出演していた。

    *註2 ヴァニラ・ファッジ:1967年、ニューヨークでデビューしたアート/サイケロック・バンド。

    *註3 スライ&ザ・ファミリー・ストーン:1966年、サンフランシスコで結成されたサイケデリック・ファンク・バンド。その後のアフリカン・アメリカン・ミュージックやロックに大きな影響を与えた。

    *註4「ケンとメリー〜愛と風のように〜」:東郷昌和が組んでいたフォークデュオ、BUZZが1972年に発表したデビュー曲。日産スカイラインのCMに起用された。

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