UP

Charlie’s History 〜ジャズを愛し、ロックンロールを叩き続けたジェントルマン〜

  • Text:Kazuaki Yokoyama

■多岐に渡るソロとしての活動

64年10月14日、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで彫刻を学んでいたシャーリー・アン・シェパードと結婚。同年12月、チャーリー・パーカーの生涯をまとめた絵本『Ode To A High Flying Bird』を出版。67年発売のアルバム『Between The Buttons』の裏ジャケットにチャーリーが描いた漫画が掲載される。68年3月18日、娘のセラフィーナが生まれる。70年5月、ハウリン・ウルフのロンドンでのレコーディングに参加。この頃からストーンズの活動の合間を縫って課外活動の機会も増えていき、面白いところでは、ベン・シドラン、ピート・タウンゼント/ロニー・レインのアルバムやチャールズ・ミンガスのトリビュート・アルバム『Weird Nightmare』への参加が挙げられる。77年にはピアニストのボブ・ホールとジョージ・グリーンのブキウギ・バンドへ参加。この活動はストーンズのロード・マネージャーでもあったピアニストのイアン・スチュワート率いるRocket 88として引き継がれ、後のチャーリー自身のソロ活動への布石ともなった。83年8月、Marquee Clubの25周年ライヴにアレクシス・コーナーと共に出演。同年秋、ロニー・レインの呼びかけにより、イギリスとアメリカで開催された、多発性硬化症の研究活動を支援するチャリティー・イベント、A.R.M.S.コンサートに参加。84年6月には、同年1月に亡くなったアレクシス・コーナーの追悼コンサート、同年12月にはエチオピア救済ベネフィット・コンサート、85年にはビル・ワイマンのA.R.M.S.支援のためのプロジェクト、ウィリー・アンド・ザ・プア・ボーイズ、と立て続けに参加。そしてストーンズと『Dirty Work』の制作に入るのだが、この前後の時期はストレスから酒とヘロインに溺れ、演奏に支障をきたすほどにまで荒れてしまう。かつてのドラッグ王、キース・リチャーズに薬を断つように諭されたというのは、何とも皮肉な話だ。

■夢を叶え、静かな生活を送る晩年期

さまざまな問題を抱えながらもアルバムを仕上げると、バンドはしばらく活動を休止、各々ソロ活動が活発となる。チャーリーもロンドンの老舗ジャズ・クラブ、Ronnie Scott’sに一度で良いから出演したい、という夢を叶えるため、自身のビッグ・バンドを結成、85年秋から86年にかけてライヴを行う。90年代以降はクインテット、テンテットなどの編成での活動が多くなり、2009年頃からは、ブギウギのプロジェクト、The ABC & D of Boogie Woogieを始動。ちなみに、これらの活動で相棒を務めたデイヴ・グリーンとは幼馴染みであり、10代の頃からお互いにジャズにのめり込み、レコードを集め、共演を重ね、切磋琢磨してきた間柄だった。デザインの仕事を離れたあとも、ストーンズのステージ・セットなどのデザインを手がけ、さまざまなグッズのデザインにも必ずチャーリーのチェックが入った。私生活は派手なロック・スター然としたものからは程遠く、牧場を所有し、馬を育て、園芸、クラシック・カー(運転はせず)やヴィンテージ・ドラムのコレクションを楽しみ、家族と静かに過ごすことを好んだ。96年には孫娘のシャーロットが生まれる。しかし、2004年6月に咽頭癌と診断され、放射線治療を受ける。以来、癌は小康状態で、演奏活動も精力的に続けていた。そして2021年7月、同年に受けた手術後の療養を理由に、9月からスタートするストーンズのUSツアーには参加しないことを発表。チャーリーの体調の回復とバンドへの復帰を期待される中、8月24日、ロンドン市内の病院にて80歳の生涯を閉じた。