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    【ドラマー三嶋RACCO光博が起こすInnovation  “the RACCO WORKS”】 1st Innovation:Music×Business(前編)

    • Interview & Text:Rhythm & Drums Magazine

    どういうリズム・パターンの音楽に
    お客さんが踊るのか/楽しんでるのか

    ●今お話しされている90年代半ばは、新たなジャンルが次々と生まれたり、現代とは違った音楽シーンの盛り上がりを見せていた時代でもありましたね。

    RACCO  LOVE TAMBOURINESやFLYING KIDS、MONDO GROSSOとか……たくさんいるけど、クラブ系ミュージックも勢いがありましたしね。“遊びやすかった時代”と言えるのかな。

    ●カルチャーとかも生まれやすかった時代だった?

    RACCO そうですね。ファッション系も勢いがありましたし。“新しい発想”というのもあって、“オーガナイザー”って今では当たり前ですけど当時のクラブから出てきた言葉で、それまではプロデューサーとかイベンターという名前はあったんですけど、照明、イメージ、BGM、イベントの名前……クリエイター達が楽しめるような場所を作り出す人をオーガナイザーって呼びはじめて。店に入るとスモークがたかれてて、照明もすごい色で本当に異世界みたいな感じでしたよ。クラブに行くと第一線で世界的に活躍しているデザイナーやアーティスト、スタイリストとかカメラマンに会えて、僕は当時23歳くらいでしたけど彼らは10歳上くらい。本当はそういう人達の時代が一番勢いがあって、僕くらいの頃はそういう人達がみんな海外に行ってしまっていて、その残り香がちょっとだけある……みたいな感じでした。クラブ・ミュージックにしても屋敷豪太さんが参加されていたMELONとかは勢いがあってすごかった。

    ●クラブはラッコさんにとって、どんな発見がありましたか?

    RACCO 僕みたいに田舎のライヴ・ハウスでやっていた人間が都会に出てきて、クラブを知るという流れの中で、“お客さんは何を聴いてどう踊るか”ってことを感じたかな。音楽の基本ってリズムじゃないですか。で、ドラムというかリズム・パターン=ジャンルだと思うんですけど、そういうことを勉強しているドラマーがクラブに行くと、どういうリズム・パターンの音楽にお客さんが踊るのか/楽しんでるのかって聴いてアナライズするわけですよ。そのときクラブでよく流れていたのは、だいたいハウス・ミュージックとかヒップホップなんですけど、僕はターンテーブル回していたDJやオーガナイザーに“これでも踊れるんじゃない?”ってジャズとかファンクを勧めたりして。そういう動きは世界でも起こっていてアシッド・ジャズなんかはまさにそれだったと思います。古着のリバイバルなんかも同じで、当時はベルボトムとかアフロとか笑いのネタだったんですけど、代官山の名物バイヤーのイトウさんが下北沢で70sファンクを流すイベントをやり始めたんですよ。そこにタイジさんも遊びに行くようになって、音楽とファッションが融合していったり。そういうInnovationは起こりやすい時代だったと思いますね。DJとドラムで一緒に演奏したいっていうのも当時はめずらしかったですけど、DJ KRUSHさんと共演しましたし。西麻布や渋谷にそういう面白い場所があったんですけど、僕がよく通っていたのは93〜96年くらい。そこから客層とか時代がだんだん変わっていって行かなくなったんです。

    ●ドラマーとしての活動は?

    RACCO シアターブルックをやっていたときからBONNIE PINKのサポートはやっていて、まだデビュー当時でしたね。あとはミュージックステーションのCharaの「やさしい気持ち」とか、織田裕二with マキシ・プリーストの「Love Somebody」にも参加したり。

    ●そういう活動が2000年代まで続くんですよね。

    RACCO バンドを抜けた後は音楽事務所に入って、SUGARSOULのサポートとか小室哲哉さんとお笑いのロンドンブーツ1号2号が出演するTV番組の仕事とかをこなしていました。あとはC.U.B.というバンドで鍵盤とサックスをやっている大島俊一君とベースを弾いていた宇多川博史君と3ピース・トランス・バンドをやったりもして、「マトリックス」の試写会で演奏依頼がありましたが、メンバーが売れっ子だった頃でスケジュール合わなくてできなかったですけど(笑)。でもその頃は、小さなライヴ・ハウスでやっていたようなドーーン!って誰にも負けないキックを鳴らすようなことをすると音が潰れるだけなので、いわゆるコンサート会場で求められていることの違いを意識するようになった頃でしたね。ポップスでのサポートですし、ある意味洗練されたドラムを叩こうと思っていました。2000年代前半はだんだんと自分のリズムに対する考えも言語化できるようになってきて、教則DVDとか文章も書かせてもらったりもするようになって。

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    2007年にリリースされたソロ・アルバム
    『RACCO:Beginning of the Future 4』

    ●やっぱりドラマーとしての活動だけでなく、サイドにいろいろ広がっていくんですね。

    RACCO 僕がやりたいことは“ミュージック・ビジネスなんだな”と思って。アーティストであってビジネスをわかっているっていう人間になりたいなと思い描いていました。

    勇気を持って新しいことにトライする
    それってすごく大事なことだと思う

    ●プロ・ドラマーとしての活動が続く中で、今度は静岡県で障害者施設の支援をされることになるんですよね。

    RACCO そうなんです。もともとは“もっとドラムを極めたい、練習したい”と思っていたんですけど、なかなか都内ではドラムが練習できる格安物件なんてなくて。そんなときに静岡の菊川市で“音楽で障害者の支援をしませんか?”って話がきたんです。菊川市に障害者のための大きな福祉施設があるんですけど、国民文化祭の静岡大会に向けて1ヵ月半くらいかけて施設の子と一緒にパフォーマンスしてもらえませんかってことだったんです。静岡だったら都心からそこまで離れていないので都心の演奏活動も何とかできるはずだし、わりと山奥の方なので、ドラムが叩きまくれるかなとも思って自然と意識が変わったんです。それから障害者の方と一緒に打楽器を使ったリズム・アンサブルのチームを作って支援を始めたんです。

    ●再び大きく方向性が変わりましたね……。

    RACCO 音楽に特化した支援ということで結局10年くらい関わりましたし、その頃はラジオ番組を2年くらい手伝ったりもしました。毎週1時間の番組で僕は編集をやっていたんですけど、ドラマーだからジングルが入るタイミングとか得意で(笑)。その後障害者施設の支援は、僕が独立するような形で新たに法人を立ち上げることになって、バンドを組んでみたり、より音楽に特化する形態になりました。市や地元の経営者や青年会議所の助けや出資もあってフェスを開催することもできて5,000人くらいお客さんが来たんですけど、そんなふうに、たくさんのことにトライすることができましたね。

    ●そこでもいろいろなことを感じたと思います。

    RACCO 障害者って障害じゃなくて個性だと思うんですよ。ミュージシャンでも音楽しかできない個性の突き抜けた人っているじゃないですか。世間の偏見を取っ払って自由にやらせると素晴らしいものが出来上がる。そういう意味では大きな組織ではなく独立した一般社団法人でやることができて本当に良かったと思っています。勇気を持って新しいことにトライする、それってすごく大事なことだと思うんです。他人のために自分にしかできないことを極めていくのが僕にとっては一番楽で、その中で自然とInnovationを繰り返してきたと思うんです。ドラマーにしたって、いつの時代にもすごいドラマーがたくさん出てきますけど、“こんなドラマーが出てきた。ならば自分はどうするか?”って思うくらいで怖くない。そんなふうに考えることで世界は本当に広がっていったと思っています。

    ●ここまでたくさんのお話をうかがってきましたが、実はこの先さらにたくさんの“Innovationが”起こるんですよね(笑)。次回は現在の活動に辿り着くまでインタビューしたいと思っております。

    RACCO 1回では全然辿り着きませんでしたね(笑)。

    三嶋RACCO光博

    Profile●ミシマラッコミツヒロ:1968年鹿児島県生まれ。10歳のときに国家公務員の父の転勤により徳島県に移住。17歳で上京。プロ・ドラマーとしての活動をスタートさせる。95年にロック・バンド、シアターブルックのミニ・アルバム『CALM DOWN』でメジャー・デビュー。97年にバンドを脱退。以降バンドマンからセッション・ドラマーへ軸を移し、活動の幅を広げる。11年に静岡県菊川市社会福祉法人草笛の会に赴任、障害音楽リズム療法に取り組みサービス管理責任者の資格を取得し、障害者の音楽支援を行う。18年より、耕作放棄茶畑、中山間地域再生に取り組み、薪炒り三年番茶を製造。世界緑茶コンテスト2019奨励賞受賞。22年に父の介護のため熊本県へ帰郷、そしてリズム&ドラム・スクール開講のためラッコワークス合同会社(RACCOWORKS LLC)を設立、起業する。
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