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    【R.I.P.】現代に通じる新たなドラマー像を確立した世界的なアーティスト、高橋幸宏急逝

    • Photo:Taichi Nishimaki
    • Text:Satoshi Kishida/Rhythm & Drums Magazine

    サディスティック・ミカ・バンド、Yellow Magic Orchestraのメンバーで、世界にその名を轟かせた日本を代表するドラマー、高橋幸宏氏が誤嚥性肺炎のため1月11日に死去していたことが発表された。

    幸宏氏は1952年6月6日、東京都出身。成毛 滋らとザ・フィンガーズというバンドを組んでいた兄・高橋信之の影響で音楽に目覚め、12歳でドラムを始める。好きなドラマーはメル・テイラー(ザ・ベンチャーズ)、リンゴ・スター(ザ・ビートルズ)、アル・ジャクソン(ブッカーT&ザMG’s)バーナード・パーディ、スティーヴ・ガッド、カーマイン・アピスなど。

    立教高校時代からスタジオ・ミュージシャンとして活動開始。69年、フォーク・グループ、ガロのバック・バンドに加入し、小原 礼と演奏。72年、加藤和彦のサディスティック・ミカ・バンドに小原と共に加わり、74年発表の2nd『黒船』は、日本ロック史上の名盤として今も評価が高い。75年、ロキシー・ミュージックと全英ツアーを行ない大きな話題となるも解散。76年にミカ・バンドの元メンバーとサディスティックスを結成し、78年まで活動している。

    78年2月、細野晴臣のソロ作『はらいそ』のレコーディングで細野、坂本龍一、高橋の3人が初めて顔を合わせ、その日の会合からイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)結成に至る。同年11月、YMOデビュー。79年と80年に2度のワールド・ツアーを行ない、海外から逆輸入される形で国内でも人気に火がつき、YMOブームが巻き起こった。

    幸宏氏が作曲した代表曲「RYDEEN」

    初期YMOのビジュアル・イメージとして有名な“赤い人民服”は、高橋のデザインによるもの。当時からすでにファッション・ブランド「Bricks」を持ち、デザイナーとしても活動していた。

    YMOと並行し、78年より第1作『サラヴァ!』でソロ・アルバムの制作を開始。13年リリースの『LIFE A NEW』までに通算21枚の作品を発表している。また、81年には鈴木慶一とTHE BEATNIKS(ビートニクス)結成。これまでに5枚のアルバムを残している。

    1982年のドラマガ創刊号の巻頭として登場した幸宏氏

    83年12月、YMO散開(解散)。89年、桐島かれんをヴォーカルにサディスティック・ミカ・バンドが一時的に再結成。また、93年にはYMO再生(再結成)が発表され、アルバム『テクノドン』リリース後、東京ドーム公演を行うが、その後再び活動停止となった。

    02年、細野と高橋の2人でSKETCH SHOW結成。そのアルバムやライヴに坂本がゲストとして参加し、徐々に3人での活動が本格化。04年、3人はHuman Audio Sponge(ヒューマン・オーディオ・スポンジ/HAS)と名乗りスペインでライヴを行う。07年人は世界8カ国で同時開催されたライブ・アースにYellow Magic Orchestra名義で出演。

    盟友である細野晴臣氏と結成したユニット、SKETCH SHOW

    また同時期、「HAS」に「YMO」を直接つなげたHASYMO(ハシモ)名義でもシングルを発表する。08年、MELTDOWN FESTIVALに招かれ、YMOとして28年ぶりのロンドン公演。その後、HASYMO名義を含め、断続的に活動を継続。また、05年には木村カエラをヴォーカルにサディスティック・ミカ・バンドが二度目の再結成を果たした。

    08年に新バンド、pupaを高野 寛、高田 漣、原田知世、権藤知彦、堀江博久と結成。担当楽器を固定しない自由な制作を展開。さらに自らキュレーターを務める夏のライヴ・イベント、WORLD HAPPINESSを08年より19年まで主催。

    原田知世の参加でも話題を集めたpupa

    14年には小山田圭吾、砂原良徳、TOWA TEI、ゴンドウトモヒコ、LEO今井と共に高橋幸宏&METAFIVEを結成。当初は一夜限りのユニットの予定であったが、翌年にMETAFIVEに改名し、16年にアルバム『META』をリリース。数多くのバンド、ユニットで活動してきた高橋だが、結果としてこれが最後のバンドとなった。

    METAFIVEのスタジオ・ライヴではアクリル製のキットでプレイ

    2020年に脳腫瘍の手術を行ったことを公表。経過は良好ということで、退院後は自宅療養しながら音楽活動も再開。本格復帰に期待が高まっていたが、21年8月にライヴ活動を休止し、治療に専念することがアナウンスされていた。

    2022年は音楽生活50周年の節目となり、9月18日には、縁の深いミュージシャン達が集結し、NHKホールにて“高橋幸宏 50周年記念ライヴ LOVE TOGETHER 愛こそすべて”が開催。本人の出演はなかったものの、超満員のオーディエンスが来場。再びステージに立つ姿を見たいと願うファンも多かっただけに、今回の訃報は残念でならない。

    デビュー以来、作詞・作曲、ヴォーカル、音楽プロデュース、ファッション・デザイン、ラジオDJなど多岐に渡り活動を展開。YMOなどでコンピュータと同期しながらドラムを叩く斬新なスタイルを確立。レコーディングやライヴにおけるデジタル時代のドラマーのあり方を新たに提示して見せた功績は絶大で、氏のプレイ・スタイルに影響を受けたプロ・ドラマーも数多い。

    本誌最後の登場となった2019年1月号のインタビュー

    本誌には創刊号からご登場いただき、表紙を飾ったのは計3回。最後に取材したのは2019年1月号で、ソロ活動40周年を記念し、ファースト・アルバム『Saravah!』のヴォーカル・パートを再録音し、ミックス&マスタリングを施して発表された『Saravah Saravah!』のリリース・タイミングであった。

    1986年冬号
    1995年7月号
    2013年8月号

    印象に残っているのは『LIFE A NEW』発表時に行った2013年8月号の表紙特集で、ドラム・マガジンとしては18年ぶりにインタビューが実現。自身のルーツやドラマーとしての考え方など、1時間以上に渡ってたっぷりと語っていただき、最後に聞いた”幸宏さんにとってドラムとは?”という質問に対しては、「僕が唯一プロ・レベルで演奏できる楽器がドラムなんですよね。始めた当初はギターかピアノにしておけばよかったなって思っていたんです。ドラム担いで女の子を口説くわけにはいかないじゃないですか(笑)? でもこの間、(NHKの)『スコラ』の収録で「ハロー・グッドバイ」をYMOでやったときに教授(坂本龍一)が、「やっぱりドラムが良いよね、全部世界が変わっちゃうもんね、これで」とか言ってて。これだけ長いつき合いになりましたし、それなりに面白い楽器なんでしょうね、ドラムは」と締め括ってくれた。また、発売後にFacebookで“18年ぶりとかのこの表紙、専門誌っぽくなくて好きです”と投稿していただいたことも思い出深い。

    心よりご冥福をお祈りいたします。

    *本原稿は2013年8月号掲載のバイオグラフィに加筆したものになります