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    【R.I.P.】日本のハード・ロック・シーンの礎を築いたBOW WOWのドラマー、新美俊宏急逝

    • Photo:Masao Sekigawa

    1976年にデビューし、海外でもその名を轟かせた日本が世界に誇るハード・ロック・バンド、BOW WOW。そのオリジナル・ドラマーとして屋台骨を支えた新美俊宏氏が癌のため5月27日にこの世を去った。享年66歳。BOW WOWのメンバーである山本恭司がTwitterで発表した。

    新美氏は1956年6月27日生まれ。愛知県出身。74年にBOW WOWのギタリスト、斉藤光浩も参加していたDO T.DOLLに加入し、プロ・デビュー。翌75年、斉藤に山本恭司(vo、g)、佐野賢二(b)を加えた4人でBOW WOWを結成。76年にアルバム『吼えろBOW WOW』でデビューを果たした。

    2007年3月号の特集「HARD & HEAVYドラムを追え!!」でインタビューを行なった際、新美氏はBOW WOWの結成について「プロデューサーの計画ではベイ・シティ・ローラーズみたいなバンドにしたかったらしいよ(笑)。でも、山本恭司というギタリストが入って、徐々にHR志向になっていった。もし、彼が参加していなかったら、HRバンドにならなかったから」と語っている。

    また、BOW WOWを結成するまではハード・ロックがそこまで好きだったわけではなかったようで、「ハード・ロックが好きになったのは、BOW WOWとしてデビューする前に、みんなで合宿生活をしていたんだけど、そこでみっちりと仕込まれたときかな」とも述べている。

    デビューの翌年にはキッスやエアロスミスの来日公演でオープニング・アクトを務めるなど、精力的に活動を展開。80年代に入ると海外でも名前が知られるようになり、82年にはイギリスのロック・フェス、レディング・フェスティバル出演。翌83年にはハノイ・ロックスとの英国ツアーを回るなど、活動の場を海外にも広げるようになった。

    83年にギター&ヴォーカルの斉藤が脱退。人見元基(vo)、厚見玲衣(key)を新たなメンバーに迎え、84年にバンド名をVOW WOWと改称。80年代中頃にはロンドンヘ拠点を移し、本格的に海外へと進出を果たした。1986年秋号の記事による“VOW WOW”は当初から海外を目指していたということで、ロンドンへ飛び立つ直前に行われた新美氏のインタビューでは「向こうでの生活の不安は、特にありません。小さなクラブでも、どんどん出演したいんです」と意欲を語っていた。

    1986年秋号の誌面

    87年発表の『V』収録の「DON’T LEAVE ME NOW」や88年発表のアルバム『VIBe』がチャート入りを果たすなど、一定の成功を収めるも90年VOW WOWは解散。07年のインタビューでは、「それまでは前へ前へ行くような感じだったけど、今度は後ろをすごく意識するようになった。最初のうちはそれを意識するあまり、オカズまでもたっちゃったりして(笑)、イスを低くしたり、ドラムを深胴にしたり、いろいろ工夫したな」と海外進出に当たって試行錯誤した当時のことを振り返っている。

    90年代はZIGGYの戸城憲夫(b)とLANCE OF THRILL~THE SLUT BANKSで活動。98年からはBOW WOWが再始動。2011年に行われたデビュー35周年公演では、タムをズラリと並べたお馴染みの多点セッティングで、パワフルかつテクニカルなドラミングを披露してくれていた。

    山本が投稿したツイートによると、5月に体調の異変を感じ、調べてもらったところ、すでに癌が全身に転移していたという。5月6日に入院するも、5月27日に帰らぬ人となってしまった。

    日本から世界へと羽ばたいたハード・ロック・バンドのパイオニア的存在であり、ドラム・セット下に敷くゴム・マットをいち早く取り入れるなど、ハード面のパイオニアとしても、さまざまな形で後進のドラマーに影響を与えていた新美氏。07年のインタビューの締め括りとして、HR/HMドラミングの魅力について「基本的にストレートな音楽だと思うんですよね。だから難しいことをやらなくても楽しめる。そこが魅力かな」と語っていた。

    心よりご冥福をお祈りいたします。