SPECIAL
ドラマガ本誌21年7月号で一部お届けした
石若 駿の追悼メッセージ全文を特別公開!
ドラマー界の巨星、村上“ポンタ”秀一氏の逝去を受けて、70ページ以上に渡る追悼特集をお届けしたドラマガ本誌2021年7月号。本特集内ではコーナーの1つとして追悼アンケート「Saying Goodbye to PONTA」を企画し、34名のドラマー達にご協力をいただいた。ベスト・プレイだと思う作品や想い出に触れた貴重なコメントが続々と届く中、2,500字超のボリュームで、誌面には収まらないほどの“愛”を語ってくれたのが石若 駿だ。ここでは、追悼アンケートの特別編として、本誌ではダイジェスト版での掲載となった石若のコメントの全容を公開! 長年に渡って親交を深めてきたポンタ氏との出会いや、近年のセッション・プロジェクト=四つの核心での活動、印象深いエピソードなどを振り返っていただいた。
「おいドラムの少年、電話番号教えて」
石若 駿:ポンタさんと初めてお会いしたのは、今から16、7年くらい前。僕が、札幌ジュニアジャズスクールに所属していた小学校6年生か中学校1年生の頃。
場所は、倶知安のジャズ・フェスティバルの前夜祭。ほんとは外でBBQする予定が、雨で室内のビュッフェ系の宴会パーティー会場みたいなところに急遽変更になった。
全国から出演のために集まったプロ・ミュージシャン達が席に落ち着くまでの時間、当時同じくジャズ・スクールに所属していた、サックスの寺久保エレナ達と演奏することになって、ライド・シンバル、スネア、バスドラだけの簡易ドラムをセッティングして、「A列車で行こう」や、「ウォーターメロン・マン」、「The Chicken」、「カメレオン」などを演奏していたら、ポンタさんがお見えになり、席から、グラサンしながら、葉巻をくわえ、こちらをジッと見ている。
生ポンタさんがいることがうれしくて、僕は調子に乗ってポンタさんの名フレーズである、“ドパラドタチタチ”を連発する。ニヤニヤしてくれて、さらに、連発する。で、僕らの演奏が終わったあとに“ちょっとこっち来い”的な感じで、すごく暖かく、「お前達すごいなー」と褒めてくださった。
そして、ポンタさんから「おいドラムの少年、電話番号教えて」と言われて、プリペイド携帯を持っていたので、アドレスと番号を交換しました。スティックも貰ってしまいました。
それから翌日も自分達の演奏を無事終えて、ポンタさんが演奏するPINK BONGOも楽しく観て、夜遅く札幌へ帰った。
次の日起きて、ポンタさんに連絡をしてみる。「スティック、シンバルなどドラムのことで困ったことがあったら何でもいつでも連絡ちょーだい」と言ってくださってとても舞い上がった。
それからしばらくして再び舞い上がったのは、ポンタさんは当時ドラム・マガジンにて“場数王”という連載をしていて、僕のことを書いてくれた。何月号か忘れたけど、“札幌のチビっ子ドラマーですごいやつがいる”って書いてくれた。記憶にあるのは、ぼくの名前がアブストラクトに間違っていて笑った記憶があります(実家に帰ったら探してみます)。
僕がリリースした作品を積極的に聴いてくださった
さらにそれからしばらくして、2008年。高校生になり、吉祥寺Stringsにライヴを観に行って再会。ベースは金澤英明さんで、もうすでにBoys Trioツアーなど共にしているので、あらためて中継してくださった。Shihoさんが歌っていたな。その日にポンタさんの特注ロッズを譲り受けた。1つのロッズで2つの音色が出せるやつ。また舞い上がった。
大学に入学して落ち着いた頃、2011年の秋、目黒のBLUES ALLEY JAPANにて、ベースの金澤さんが企画したコンサートがあった。ポンタさんと、鶴谷さんとトリプル・ドラム。他のメンツは誰がいただろうかと調べるととても豪華。
bass:金澤英明、日野JINO賢二、大西 真
drums:村上“ポンタ”秀一、鶴谷智生、石若 駿
piano:石井 彰
guitar:三好3吉功郎
vocal:Shiho
trumpet:日野皓正
それぞれいろんな組み合わせで持ち寄った曲を演奏しました。もちろんドラム合戦的なシーンもありました。それから、夏のジャズ・フェスなどでよく会っては会話する感じでした。
大学を卒業しドラマーとして活動し始めた頃には、僕がリリースした作品を積極的に聴いてくださって、その都度、電話で感想を言ってくださいました。CRCK/LCKS 1st EPのときなど。
2015年のある日には、関西の方のサービス・エリアで休憩して立ち寄ったら、派手なシャツを着た人がいるなーと思えば、「おー!!!」、「偶然すぎますポンタさん!」と、遭遇しては写真を撮った思い出もあったり。
とにかく新譜がリリースされたら、すぐに留守電が入っていて、「新しいの送ってくれー!」と言ってくださいました。レーベルの方にも協力いただいて、送ってもらって、そのお礼には直筆の手紙が入っていたりと、大変真摯なお方でした。
4人でツアーをしようという話になり、すぐにブッキング
それから、ここ数年は“四つの核心”というドラマー4人と1人のピアニストの音楽が始まりました。
drums:村上ポンタ秀一/森山威男/松下マサナオ/石若 駿
piano:伊藤志宏
ここ数年、マサナオさんがポンタさんを招いてイベントすることが多く、僕とマサナオさんとの企画や、僕と森山さんでのツイン・ドラムの経験も多く、ポンタさんと森山さんは昔からの仲間でもあります。
このメンツにはそういう伏線があり、四つの核心の発端は、とある日、名古屋sunset BLUEというところでマサナオさんと、ダンサーのハラサオリさんとトリオで演奏しておりました。そしたら、森山さんがTOKUZOにて演奏しているということで、会いに行って飲もうということになり、そしたらポンタさんも近くで演奏しているということで、ポンタさんにも連絡してTOKUZOでハングしよう!ということに、偶然なりました。
TOKUZOの終演後に急にみんな集まり、1つのテーブルを囲んでご飯食べて、盛り上がって、この4人でツアーをしようという話になり、すぐにTOKUZOのスケジュールをいただいてブッキングしました。偶然が偶然を呼んで、たくさん飲んで盛り上がって、素晴らしい1日になりました。
そして、四つの核心の2daysをTOKUZOでやっては、夜深くまで食べて飲んで話し合って。音楽的には、それぞれのドラム・ソロ、それぞれ志宏さんとのデュオ、最後に全員でジミヘンの曲を演奏するというもので、毎日のドラム・ソロがみんな素晴らしかったのが記憶に新しいです。翌年2019年には、東京では代官山UNITで、名古屋TOKUZOで2daysをやりました。
留守電を聞けばまだそこにいる感じがします
それから冬になり、2020年の秋には東北を含むちょっと長めのツアーをブッキングしていました。しかし、年が明けたらコロナの状況になり、ポンタさんは持病のこともあり、気をつけてライヴ活動をお休みしていました。
電話ではやりとりをして、「またCD送ってくれ!」とか、次の四つの核心のライヴをどうしようかなど話していました。そんな矢先でした。留守電がたくさん残っていて、聴けばまだそこにいる感じがします。
訃報が発表された夜には、僕はPIT INNで演奏していて、ポンタさんに捧げるドラム・ソロをさせていただきました。終演後は、下北沢でライヴをしていたマサナオさんがPIT INNまで来てくれて、2人で献杯を交わし、ポンタさんの山下達郎での演奏を大音量で聴きました。
その2日後はマサナオさんとポンタさんの身内の方々でお墓参りに行き、もうお別れなんだなと実感しました。それからみんなでご飯食べて、思い出を語らいました。
ポンタ氏が本誌に唯一残したドラム音源「Kaleidos」を収録!
リズム&ドラム・マガジン21年7月号 追悼特集内容
巨星墜つ 村上“ポンタ”秀一
Part. 1 Memories of PONTA
縁深いミュージシャンによる“証言集”
Part. 2 PONTA’s Gear
(I)Equipment History – 蹴って、叩いて、愛した歴代の楽器たち
(II)Anatomy of PONTA’s Signature – ポンタ氏が遺したシグネチャー・モデルを検証!
(III)Words of Respect – パールが語るポンタ氏との固いリレーションシップ
Part. 3 Memorial Archives
Archive Interview ①
スーパー・ドラマー研究 村上秀一/1985年 No.09
Archive Talk Session ドラマーの快楽
村上“ポンタ”秀一×YOSHIKI [X JAPAN]/1990年春号
Archive Interview ②
『PONTA BOX Ⅱ』リリース時/1995年6月号
Archive Interview ③
音楽生活30周年を本人厳選の10曲で振り返る/2004年1月号
Playing Analysis(DLコード連動)
通巻200号付録CD収録「Kaleidos」 2007年7月号
Part.4 Saying Goodbye to PONTA
[追悼アンケート]34名のドラマーが語るポンタ氏への想い