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Archive Interview −ビル・ブルーフォード−

本日5月17日はYes、King Crimsonのドラマーとしてその名を轟かせた唯一無二のドラム奏者=ビル・ブルーフォードの生誕記念日浮遊感のある独自のグルーヴと知的なアプローチでプログレッシヴ・ロック・シーンを牽引し、還暦を迎えた2009年にライヴ活動からの引退を表明するも、未だに大きな影響力を持ち続けるリヴィング・レジェンドである。ここではドラマーとしてのキャリア40周年を迎えた2007年に実現したロング・インタビューから、そのルーツについて語った一部を再掲載!

私のやる音楽はすべてジャズに帰結する

●まず生年月日を教えてください。
ビル 1949年5月17日。

●生まれた場所はどこですか?
ビル イギリス、ケント州セヴンオークス。

●よろしければ、育った環境についても教えていただけますか? 子供の頃の音楽環境はいかがでしたか?
ビル 家族にミュージシャンはいなかったから、自分がそうだと気づくまでには時間がかかったよ。父親は優れた獣医だったけれど、母も父もダンスが大好きで、食後によく踊っていた。絨毯を巻き上げて、(フランク)シナトラや(デューク)エリントン、それに当時のあらゆるミュージカルの名曲に合わせて踊っていた……『オクラホマ』や『王様と私』『ウェスト・サイド・ストーリー』……アメリカのポップスのあらゆる名曲にね。最初の質問に戻ると、『ジャズ625』というテレビ番組は素晴らしかった。撮影(モノクロ)も録音も見事だったよ。11か12歳の頃には、食い入るようにして観ていたものさ。それで私はドラマーになりたいと思ったんだ。

●ドラムを始めた時期やきっかけについて、詳しく教えていただけますか?
ビル 1960年代、私がまだイギリスのケント州で学校に通っていた頃、友達のほとんどはジャズに夢中で、私もBBCでやっていた『ジャズ625』というテレビ番組をよく観ていた。番組ではアート・ブレイキーやマックス・ローチ、フィリー・ジョー・ジョーンズといった、アメリカの偉大なプレイヤー達が取り上げられていて、私は彼らの演奏に合わせてLPのジャケットをブラシで叩いていた。完璧な教育だよ!

学校では基本的なドラム・キットが使えたから、私はジャズのとてもうまい17歳の連中が組んだグループで演奏するようになった。レギュラーだったドラマーがグループを辞めることになって、私にインプロヴィゼーションのやり方を教えてくれたんだけど、そのときに彼は「これをやるんだ」と言って、私にジム・チェイピンの教則本をくれてね。それで、私は“ブーン・ブーン・チッ……”ってやる代わりに、“ティン・ティン・タ・ティン”っていうやり方を学んだんだ。

ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを聴いて、結構良いなとは思ったけれど、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズには遠くおよばなかった。ジャズはカッコいい音楽だった……アメリカ生まれで、エキゾチックなものだったからね。最初はこの音楽がよく理解できなかった。「誰もミスをしないように聴こえるのは、なぜだろう?」ってね。でも、ドラマーが背後から音楽を制御したり構築したりしていることははっきりとわかったよ。ドラマーがダイナミクスをつけてソリストに合図を送っていたんだ。ドラマーが「ウン」と言わなければ、音楽はどこへも行けない。そして、音楽に活力を与えられるのはドラマーだった。それは今も昔も変わらないし、自分でそれをやったり、誰かがうまくやっているのを聴いたりすると、信じられないぐらい愉快な気分になるんだ。私がドラムを始めた頃はものすごく幸運だった。ロック・シーンはありとあらゆる新しいアイディアに対してオープンだったからね。最近の若いドラマー達がむなしい努力をしているのを見ると心が痛む。今のシーンで活動するのはとても大変なんだ。私達の時代は楽だった。昔はリズムが2、3種類叩ければ、ブラック・サバスみたいなバンドが雇ってくれたからね。

キング・クリムゾン時代のビル

●具体的にドラムはどのように練習しましたか?
ビル 譜面の基礎や初見は優れたフルート・プレイヤーに教えてもらったけれど、学校にドラムの先生はいなかった。学校側の幹旋で、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラのルー・ポコックのレッスンを何度か受けた程度だった。あとは、とにかく何でも聴いてコピーしたよ。間違ってコピーすることもあったけれど、それがかえって自分がコピーしようとしていたものよりも面白いことを発見するきっかけになることもあったね。

●最初に一番大きな影響を受けたドラマーは誰でしたか?
ビル 私は独学のドラマーだ。(フィル)コリンズや(スチュワート)コープランド、それに、おそらく自分で何でもやってやろうという気概を持った最後の世代の、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのやつ(チャド・スミス)なんかと同じさ。私達はレコード・プレーヤーで聴いたものや、道端をゴロついているときに見つけたものを基に、自分のスタイルを築き上げたんだ。

私はジョー・モレロから変拍子、アート・ブレイキーからサウンドや進行感、マックス・ローチから楽々と楽器を操るテクニックや無駄のない音使い、冷静さ、最高度の抑制力、最小限の動揺、あとはジンジャー・ベイカーから学んだものを取り混ぜて、自分のスタイルとして打ち出したけれど、結構うまくいったようだった。今のドラミングは“洗練”が進んでいるから、少なくとも間違ったやり方を身につけないために、良い先生に就くのが一番良いのかもしれない。私のやり方だと、ひどい癖を身につけてしまって、それが将来に渡って悪影響をおよぼす危険性もあるからね。今日に至るまで、私のテクニックは典型的なアマチュアのものだ一一気の利いたことも少しはできるけれど、基礎的な知識に関しては穴がたくさん空いているからね。

●あなたは高校生の頃、非常に多くの音楽的経験を積んだと聞いていますが、その頃の音楽活動について詳しく教えていただけますか? あなたはすでに、プロのミュージシャンになろうと心に決めていましたか?
ビル 君はかなり勘違いしているようだな。イエスに参加する頃、私はほとんど演奏活動をしていなかったからね。地元のブルース・バンドと何度か仕事をししたことがあるぐらいだった。私はほとんどのドラマーがプロになる前に経験する、カヴァー・バンドやパーティ・バンドなどで演奏したこともなかった。リーズ大学でフルタイムの学生生活を送っていた私にとって、そういう活動をするのは難しかったからね。最終的にプロになろうと決心したのは、自分のところにめぐってきた“イエスへの加入”という黄金のチャンスを逃すわけにはいかなかったからなんだ。

私がプロになった1968年頃というのは、イギリスの優れたドラマー達が、こぞってエキサイティングな新しいロック・シーンになだれ込んできた時期だった。チャーリー・ワッツはザ・ローリングストーンズ、ジンジャー・ベイカーはクリームで演奏し、ミッチ・ミッチェルはジミ・ヘンドリックスのバンドでエルヴィン・ジョーンズみたいなことをやっていた。私はマックス・ローチ、ジョー・モレロ、アート・ブレイキーをミックスしたようなドラマーを目指そうと思っていたから、イエスでそれを実行に移したわけさ。以来ずっと、私のやる音楽は、すべてジャズに帰結するものばかりをやっている。ありとあらゆるエレクトリックな要素を取り入れた自分のバンド、Brufordをはじめ、パトリック・モラーツ(p)とのインプロヴィゼーション・デュオも、今もやっている。当代最高のプレイヤーを集めたアースワークスも、ブルーフォード=ボルストラップ・デュオもそうさ。