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【R.I.P.】日本ドラム・シーンの発展に尽力した猪俣 猛氏急逝
- Photo:Eiji Kikuchi
- Text:Rhythm & Drums Magazine
演奏家/指導者として、日本のドラム・シーンの礎を築き、発展に尽力してきた重鎮、猪俣 猛氏が10月4日にこの世を去った。享年88歳。
猪俣氏は1936年2月6日生まれ。兵庫県宝塚市出身。父親がオーボエ奏者、兄はトランペット奏者という音楽一家に生まれ育ち、13歳の頃にスネア・ドラムを父親に買ってもらったことをきっかけにドラムを始める。その後、ジーン・クルーパが叩く「シング・シング・シング」のSP盤に出会い、本格的にドラムにのめり込んでいったという。まだ戦後間もなく、教則本などはなかったそうで、2017年11月号の特集”猪俣 猛が語る日本JAZZ史”では、「SP盤を擦り切れるまで聴いてコピーしたんです」と当時の練習方法について語っていた。
高校時代に父親のバンドに参加する形で演奏活動をスタートさせ、やがて学校を辞めて16歳でプロ・デビュー。その後、大阪に拠点を移し、米軍キャンプやダンスホール、ナイトクラブで演奏を重ね、腕に磨きをかけたという。そして1956年、20歳のときに上京し、その後、渡辺晋とシックスジョーズに入団。石原裕次郎が主演し、大ヒットを記録した映画『嵐を呼ぶ男』のドラム指導とサウンドトラックを担当。笈田敏夫演じる敵役、チャーリー・桜田のドラムは当時21歳の猪俣氏がプレイしている。
1959年に名門、西條孝之介とウエストライナーズに入団。61年からは西條からリーダーの座を受け継ぎ、『ライナー・ノート』、『カム・トゥゲザー』などの作品を発表。グループの活動と並行し、CM、ラジオ、テレビ、映画の分野へも進出。スタジオ・ミュージシャンとして活動していた時期もあり、ジャズの枠を超えて、幅広いフィールドで活動を展開していく。
1967年、ジャズのルーツを求めて単身アメリカへと渡り、帰国後に自身のバンド、サウンドリミテッドを結成。1970年にリリースされた1stアルバム『サウンド・オブ・サウンド・リミテッド』は、ジャズ・ロックの名盤として、現在も高い人気を誇っている。後に当時の一流ミュージシャンを集め、ウエストライナーズ、サウンド・リミテッドに続く第三のバンドとして“ザ・サード”を結成。ドラム・セットをステージ前に組み、盟友=前田憲男(p)によるビック・バンド・サウンドを思う存分にプレイするスタイルで人気を博す。
演奏活動と並行して、後進の指導も行っていたが、1976年にRCC(リズム・クリニック・センター)ドラムスクール(HP)を立ち上げ、ドラム指導者としてのキャリアも活発化。RCCドラムスクールを設立するに当たって、渡米し、名伯楽として知られるアラン・ドーソンのレッスンを受け、「君の考えていることは正しい。大丈夫だ。自信をもってやりたまえ」と指導方法にお墨つきを受けた。そして関東近郊の楽器店に講師を派遣する形で始まり、1977年に会社化され、規模を拡大。
氏はRCCの立ち上げに関して、2009年9月号のインタビューで「ちょうど“鍵っ子”っていうのが出てきた時代だったから、こりゃイカン!と思ったんだ。人間がコミュニケーションを図る場所を作っておかないといけないなと思ってRCCを始めようと思ったんだ。ドラムを教えるというよりも、礼に始まり、礼に終わるっていう挨拶を教えるのが基本」と語っており、その理念は日本最大級のドラム教室となった現在も一貫されている。
1990年には音楽生活40周年を記念し、Bunkamuraオーチャード・ホールにて記念コンサートを開催。94年には「サンクス・トゥ・アメリカ」と題して、アメリカの殿堂とも言えるアポロシアター、そしてカーネギー・ホールでコンサートを実現。ジーン・クルーパに憧れた氏にとってカーネギー・ホール公演は夢だったそうで、叶えたことで「また一段と音楽が好きになった」とも語っている。
1995年に日本のジャズ界に最も大きく貢献した人物に対して贈られる南里文雄賞を受賞。1997年には28人編成のグループ、シンフォニック・ジャズ・オーケストラを結成。同年からは飛鳥ワールドクルーズに猪俣猛カルテットとして連続乗船、2000年には音楽生活50周年コンサート、2001~4年にかけて前田憲男、荒川康男(b)とのシリーズ・コンサート「Golden Trio WE3」を行うなど、半世紀を超えるキャリアを重ねてなお、精力的な演奏活動を展開。そして2008年には弊社より教則DVD『ザ・ジャズ・ドラム』を発表。翌2009年にはサントリーホールにて60周年コンサートも成功させた。
2017年に長年に渡る日本文化の振興への貢献を評価され、文化庁長官表彰を授与。同年にはYamahaドラムの功労者として、記念式典にてクリスタル・トロフィが贈呈された。コロナ禍に突入した2020年には、YouTubeで「イノさんチャンネル」を開設。定期的に配信を行い、80代とは思えない溌剌とした演奏を繰り広げるなど、元気な姿を見せていただけに、今回の訃報に驚いた人も多かったのではないだろうか。
本誌リズム&ドラム・マガジンにも長年に渡って多大なご協力をいただき、演奏活動60年を迎えた2009年9月号では表紙特集も掲載。個人的にも何度か取材させていただいたが、中でも記憶に残っているのは通巻300号を迎えた2015年12月号のインタビュー。レコーダーを回してすぐに、「今日もハッキリと言わせてもらうよ」と宣言。多岐に渡る話の中には、若いドラマーに対しての厳しい提言もあったが、「今はみんなうまいよ、それは間違いない。でも惜しいことに歌心が欠けているんだ」と語り、もっと良くなってほしいという気持ちから生まれた、愛ある叱咤激励であったと思う。
追悼のラストとして、氏がそのインタビューで語った一文を抜粋して掲載したい。
「僕は“まず歴史を知れ!”と言うんだよ。過去、現在、未来とあって、過去があるから現在があるわけじゃない? その過去を知らないから、今、何をやっているのかが理解できていない。その点、アメリカのドラマーは、ジャンルに関係なくすごく歴史に詳しい。だから彼らの演奏には“根”を感じるんだよ。あと、これもよく言うんだけど、“漢字を書きすぎるな”ということ。みんな漢字……難しいフレーズばかりやりたがるけど、音楽は平仮名さえ書ければちゃんとした文章になる。平仮名っていうのは、テクニックで言えばシングル・ストロークとダブル・ストロークだけど、ドラム・マガジンが“何とかディドル”とかいって誌面で難しい“漢字”を紹介するわけじゃない(笑)。それを真似しても自分の言葉として伝わってこないから、人間味を感じられない。ハートのないドラムは音楽じゃないよね。“漢字”を求める声があるのはわかるけど、それ以上に必要なことがあることを、ドラム・マガジンには提言していってほしいな」。
猪俣先生、本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。