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Biography チャーリー・ワッツが歩んだ足跡

  • Text:Satoshi Kishida/Photo:Masao Sekigawa

8月24日に80歳でこの世を去ったザ・ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツ。ドラマガWebでは追悼特集として、偉大なるドラマーの功績を振り返っているが、ここではドラマガ2006年4月号に掲載したバイオグラフィを転載。ストーンズに出会うまでと、ストーンズを離れて、という2つの切り口でその足跡に迫っている。

♯1 ストーンズに出会うまで

チャーリー・ワッツ、本名チャールズ・ロバート・ワッツは、1941年6月2日、ロンドンのイズリントン生まれ。父親はトラック・ドライバーだった。彼の最初の音楽体験は、12歳のとき、ジェリー・マリガンの「ウォーキング・シューズ」を聴いたとき。その曲でドラムを叩いていたチコ・ハミルトンのブラシ・ワークに魅了されたのだ。それは、紳士がストリートを颯爽と闊歩しているようにカッコ良く聴こえた。これを聴いて彼は、自分が“ジャズ・ドラマー”になることを思い描くようになったのだという。

だが彼の家はそれほど裕福ではなく、ドラム・セットをすぐに買うことはできなかった。そこでチャーリーは家にあったバンジョーを改造し、そのボディをスネアに見立てて「ウォーキング・シューズ」のレコードに合わせ、ひたすらジャズ・ドラム、ブラシ・ワークのコピーに励んだ。14歳のクリスマス、念願だったドラム・キットを両親がプレゼントしてくれた。50年代のロンドンではトラディショナル・ジャズが人気で、ルイ・アームストロングなどを彼は最初よく聴いた。またロンドンのジャズ・クラブにも次第に通い始めた。やがてチャーリーパーカーやミルト・ジャクソンなど、モダン・ジャズにものめり込んだという。以来、ジャズを聴き進めるうち、やがて5000枚におよぶレコード・コレクションが積み上がっていったという。

当時最も好きだったドラマーは、バディ・リッチ、ケニー・クラーク、アート・テイラー、トニー・ウィリアムスなど。ビッグ・バンドでもスモール・コンボでもプレイできるドラマー、ドラム・ソロよりもまずはちゃんと曲を演奏できるドラマーが好きだった。やがて、ローカルのジャズ・バンドに加わってドラマーとしての道を歩き始めた彼は、56年頃からロンドンで大ブームになったスキッフルのバンドにも加わる。1959年頃、“ブリティッシュ・ブルースの父”と呼び習わされるアレクシス・コーナーと知り合い、彼のバンドに出入りするようになった。62年3月、アレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッドが結成後初めてのギグを行ったとき、ステージでドラムを叩いていたのはチャーリーである。ブライアン・ジョーンズはアレクシスを師と仰ぎ、ミック・ジャガーやキース・リチャーズもアレクシスから多くのことを学んでいた。なかなかドラマーが見つからなかった彼らストーンズが、チャーリーのドラミングに魅せられても不思議はない。だがミック達にとってみれば、すでにチャーリーはワン・ランク上の存在、自分達のバンドに加わってくれるか不安だったという。一方、チャーリーはチャーリーで、アレクシス以外にもドラマーの仕事を求めていた。かくして1963年1月、チャーリーはザ・ローリング・ストーンズの正式メンバーに迎えられる。

チャーリーにとってここで大きかったのは、キースとの出会いだった。キースが、ジャズ・ドラムをやりたいならその前にブルースを聴くべきだと言ったのが、チャーリーの胸に残り、彼はシカゴ・ブルースを聴き始める。そしてそこにある躍動するリズムに目を開かれた。だが参加当初、ストーンズの激しい演奏に、それまでジャズを叩いていたチャーリーの手首が耐えられず、バンドを続けられるのか思い悩んだこともあったという。しかしやがて手首は快復し、悩みも消えていった。同63年5月、ローリング・ストーンズはデッカ・レコードと契約し、翌6月7日、「カム・オン」(チャック・ベリーのカヴァー)でレコード・デビューを果たした。

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